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アレキサンダー カルダー
Alexander Calder(1898-1976)

 1989年  アメリカ・ペンシルベニア州のロートンで生まれる
        父アレクサンダー・スターリング・カルダーは高名な彫刻家で、
        祖父アレクサンダー・ミルン・カルダーも彫刻家であった
        二人とも巨大な人物像などや記念碑などを手がけていた
        母ナネット・レダラー・カルダーも画家であった

 1917年  ニュージャージー州スティーブンズ工科大学に入り機械工学を専攻し

 1919年  スティーブンズ工科大学を卒業した
        続く数年間は自動車技師、製図工、治水技師の助手、ワシントン州の
        木材伐採場の技師などをしたがどれにも満足できず、素描の夜間クラ
        スに通ったこともあった

 1922年  客船『H.F.アレクサンダー号』のボイラー室の機関士になる

 1923年  ニューヨークのアート・スチューデンツ・リーグに入学して素描のク
        ラスに入り、ジョン・スローンやジョージ・ルークス、ボードマン・
        ロビンソンといったニューヨークの実績ある画家たちのもとで学んだ
        学生の間、彼はタブロイド新聞社でスポーツなどの記事の挿絵の仕事
        をしていたが、そのときに取材に行ったサーカスですっかり魅了され、
        サーカスを描いた無数のスケッチや、サーカスの動物や芸人を題材に
        して針金を巻いて作った彫刻を作った

 1926年  パリに移りアカデミー・ド・ラ・グラン・ショーミエールに入学
        この時生活のために、機械工学の経験を使い、針金や木を用いて機械
        仕掛けの玩具作りをはじめたことをきっかけに、針金による彫刻に本
        格的に取り組むことになる
        また彼はフランスに針金のサーカス人形を携えて来ていたが、これも
        玩具の経験を通してより精密なものになり、針金彫刻を巧みに操って
        即興的に上演する本物のサーカスに近いパフォーマンスへと作り直した
        すぐに、『カルダーのサーカス(Cirque Calder)』はジャン・コクト
        ーを熱狂させたこときっかけに、パリの前衛芸術家たちの間で有名に
        なり、カルダーはスーツケースに詰めたサーカスを取り出して2時間に
        わたって上演するショーで入場料を稼いでいた。

 1928年  アメリカに戻ったカルダーはニューヨークのワイイー画廊で、人物や
        動物を簡略化して描いた針金彫刻による初個展を開く
        その後10年間をヨーロッパやアメリカで展覧会に参加するために大西
        洋を往復してすごすことになった

 1929年  『サーカス』を携えて乗った大西洋横断航路の客船で、ルイーザ・ジェー
        ムズというニューイングランド出身の女性と出会い、1931年に結婚した

        パリで、カルダーは『サーカス』上演を通じてジョアン・ミロ、ジャン・ア
        ルプ、マルセル・デュシャンをはじめ、主だった前衛芸術家たちと知り合う

 1930年  ピエト・モンドリアンのアトリエ訪問、抽象芸術を受け入れるきっかけに
        なるかつてないショックを彼に与えた
        『カルダーのサーカス』は、針金人形のバランスをとるための技術的な経
        験を通して、カルダーの針金彫刻および動く芸術作品(キネティック・ア
        ート)の両方に対する関心の始まりになったと見られている

 1931年  カルダーのアトリエでデュシャンがカルダーの動く彫刻に『モビール』と命名
        (フランス語で「動き」と「動因」の両方のごろ合わせとなる『モビール』)
        室内の空気の流れで予測不可能な動きをする、よりデリケートな印象の彫刻制
        作へと移った
        ここで真のモビール(床置き式のスタンディング・モビール)が誕生した
        同時期に、彼は金属板が支えあった、動かない、抽象的な彫刻『スタビル』
        を実験している。

 1933年  アメリカに戻り、コネチカット州ロックスベリーに買った18世紀の農家に住んだ

 1935年  長女サンドラが生まれる

 1936年  壁掛け式モビールを経て、完全に地面から解放された、天井から吊り下げられる
        方式のハンギング・モビールとなって結実する
        かれはほとんどの作品を黒や白、そしてなにより赤といった基本的な色しか使わ
        ずに作ったが、モンドリアン式の幾何学的構成から、より偶然性に富み有機的な
        表現へと変化していった

 1937年  パリ万博でスペイン人民戦線内閣に依頼され、フランコ軍に抵抗する意思を込め
        てスタビル『水銀の泉』を制作し、スペイン館でピカソの『ゲルニカ』などとと
        もに展示された

 1939年  次女メアリーが生まれる
        舞踊家マーサ・グラハムに会い、エリック・サティを起用した彼女のバレエの舞
        台装置をデザインしている
        ニューヨーク近代美術館の新しい建物のために、複雑で大型のハンギング・モビ
        ール『ロブスターの罠と魚の尾』を依頼される

 1943年  ニューヨーク近代美術館(MoMA)で回顧展。

 1957年  ニューヨークのアイドルワイルド空港ためにモビール『.125』を制作

 1958年  パリのユネスコ本部ビルのためにスタンディング・モビール『渦巻(La Spirale)』制作

 1966年  自伝『Autobiography with Pictures(写真入り自伝)』を出版

 1968年  メキシコ市にメキシコ五輪のため作られた20.5mの高さの『赤い太陽(El Sol Rojo)』制作

 1969年  ミシガン州グランドラピッズ市の広場のためにスタビル『ラ・グランド・ビテス』制作

 1973年  アメリカのブラニフ航空の依頼で、DC-8にペイントを施し『空飛ぶキャンバス』とした

 1974年  シカゴの連邦ビルのために作られたスタビル『フラミンゴ』制作

 1975年  アメリカ建国二百年を記念してB727にペイントをし二機目の『空飛ぶキャンバス』を完成。

 1976年  ホイットニー美術館での大回顧展
        11月11日に没する

        カルダーはブラニフ航空のための三機目のペイント『メキシコへのトリビュート』に取り
        掛かっていたところで、死去前日までワシントンD.C.でハート上院オフィスビルのスタビ
        ルとモビールを仕上げたばかりだった。
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