ホーム > 近代美術作家 > フェルナン レジェ >  フェルナン レジェ略歴

フェルナン レジェ

Fernand Leger(1881-1955)

ピカソ、ブラックらとともにキュビスム(立体派)の画家と
見なされるが、後にキュビスムの作風から離れ、太い輪郭線
と単純なフォルム、明快な色彩を特色とする独自の様式を
築いた。絵画以外にも版画、陶器、舞台装置、映画など幅広い
分野において作品を残した。

1881、フランス、ノルマンディー地方の内陸部に位置する
オルヌ県アルジャンタンに畜産農家の息子として生まれた。
1897からカーンの建築家のスタジオで修業した後、1900に
パリに出た。以後、主にパリと南仏で制作している。パリ
では建築製図工の仕事をしながら、装飾美術学校やアカデ
ミー・ジュリアンに通った。当時のレジェは印象派風の風
景画、人物画などを描いており、独自の作風を求めて模索
中であった。

1907にパリのサロン・ドートンヌで開催されたセザンヌ
の回顧展はレジェに大きな影響を与えた。この頃からレジ
ェは当時の前衛美術運動であったキュビスム(立体派)に参
加する。
「自然を円錐、円筒、球として捉える」というセザンヌの
言葉はレジェの画風にも影響し、「森の裸体」(1909-1910)
などの初期作品では人物が円筒形に還元されている。
このことから、当時の彼の作風は「キュビスム(cubism,立体
主義)」をもじって「チュビスム("T"ubism,土管屋)」と揶揄
されたこともあった。

レジェは1908からパリ、モンパルナスの共同住宅兼アトリ
エ「ラ・リュッシュ」(蜂の巣)に住みつき、そこに住んでいた
マルク・シャガールらの画家と知り合った。「ラ・リュッシュ」
は当時の若い画家たちのたまり場となっており、アメデオ
・モディリアーニ、シャイム・スーティンらの画家も出入り
していた。レジェは1910には当時の有力な画商カーンワイ
ラーに認められ、1912にカーンワイラー画廊で初の個展を
開催、1913には同画廊と専属契約を結んでいる。同じ頃、
ジャックヴィヨン、フランシス・ピカビア、ジャン・メッツァ
ンジェらが参加していたセクシオン・ドール(黄金分割)
という前衛画家グループに加わり、1912にボエシー画廊で
開催されたセクシオン・ドールのグループ展にも参加して
いる。ジャック・ヴィヨンらのアトリエがあった場所の地
名をとって「ピュトー・グループ」とも呼ばれるこのグル
ープは、キュビスムが軽視していた色彩を復活させるなど、
キュビスムの運動をより発展させようとしたものであった
が、長続きせずに終わった。レジェはこうした当時の前衛
的な美術運動に参加しつつ、キュビスムとも抽象絵画とも
異なった独自の様式を確立していく。

レジェは1914〜1917まで第一次世界大戦に従軍した。彼
は大戦中に見た大砲などの兵器の機能的美に魅せられたと
いい、また、兵役期間の休暇中にチャップリンの映画を見た
こともその後の彼の作風に影響したという。独自の様式を
確立して以後のレジェの作品には、人物とともに機械をモ
チーフとした作品が目立つ。レジェにとっては自然の風景
よりも現代に生きる人間や現代の機械文明が主たる関心の
対象であった。

1920、建築家のル・コルビュジエと知り合い、以後、ル・コル
ビュジエの設計した建築の壁画を担当することが多くなっ
た。この頃からレジェは壁画、舞台美術などにも活動の場
を広げていく。舞台装置の分野では、1923にダリウス・ミヨ
ーのバレエ「世界の創造」初演時の舞台美術を担当した。
また、1924には実験的な映画「バレエ・メカニック(音楽:
ジョージ・アンタイル)を制作している。1940から第二次
世界大戦の戦火を避けてアメリカで活動し、1945に帰国し
てフランス共産党に入党した。大戦後は壁画、ステンドグ
ラス、舞台装置、陶器、版画、書物の挿絵など幅広い総作
活動を行った。国際連合総会のホールにはレジェの壁画が
寄贈されている。陶器の制作は1949、南仏アンティーブ近
郊の山間の村ビオットで始めたもので、同地にはレジェ没
後の1960、フェルナン・レジェ美術館が建てられている。
開館式には画家仲間のピカソ、ブラック、シャガールのほか
、当時のフランス文化相・アンドレ・マルローも列席した。

1952当時71歳のレジェは、弟子でロシア出身の画家である
ナディアと再婚。再婚を機にセーヌ・エ・オワーズ県(現在
のエソンヌ県)のジフ・シュル・イヴェットに転居し、1955
に同地で没した。

フェルナン レジェ年譜

1881 2月4日フランス、ノルマンディー地方の内陸部に位置
   するオルヌ県アルジャンタンに畜産農家の息子として
   生まれる

1887 カーンの建築家のスタジオで修業

1900 パリに出る
   建築製図工の仕事をしながら、装飾美術学校やアカデ
   ミージュリアンに通う
   印象派風の風景、人物画などを描き、独自の作風を求
   めて模索

1987 サロン・ドートンヌ開催のセザンヌ回顧展に大きな影
   響を受ける
   当時の前衛美術運動であったキュビスム(立体派)に
   参加

1908 モンパルナスの若い画家のたまり場だった共同住宅兼
   アトリエ「ラ・ルュッシュ」に移る
   そこに住んでいたマルクシャガールらの画家と知り合
   う、そしてモディリアーニ、スーティンらの画家も出
   入りしていた

1910 有力な画商カーンワイラーに認められる

1912 カーンワイラー画廊で初の個展を開催

1913 カーンワイラー画廊と専属契約を結ぶ
   ジャックヴィヨン、フランシス ピカビアが参加してい
   たセクシオン・ール(黄金分割)という前衛画家グルー
   プに加わる

1912 セクシオン・ドールのグループ展にも参加
   (ボエシー画廊)
   ジャックヴィヨンらのアトリエがあった場所の地名を
   とって「ピュトーグループ」とも呼ばれるこのグループ
   はキュビスムが軽視していた色彩を復活させる等、キ
   ュビスムの運動をより発展させようとしたものであっ
   たが、長続きせずに終わった。
   レジェはこうした当時の前衛的な美術運動に参加しつ
   つ、キュビスムとも抽象絵画とも異なった独自の様式
   を確立していく

1914 第一次世界大戦に従軍(−1917)

1920 建築家ル・コルビジェと知り合う
   以後、ル・コルビジェの設計した多く名建物の壁画担当

1923 ダリウスミヨーのバレエ「世界の創造」初演の舞台美術
   担当

1940 第二次世界大戦の戦火を避けて渡米(−1945)

1949 南仏アンティーブ近郊の山村ビオットで陶器の制作を
   始める

1952 当時71歳のレジェは、弟子でロシア出身の画家である
   ナディアと再婚、再婚を機にセーヌ・エ・オワーズ県
   (現エソンヌ県)のジフ・シュル・イヴェットに転居

1955 8月17日ジフ=シュル=イヴェットで死去

1960 ビオットにフェルナン レジェ美術館が建てられる

代表作
森の裸体(1909-1910)クレラー・ミュラー美術館
(オランダ・オッテルロー)
青衣の女(1912)バーゼル市立美術館(スイス)
トランプ遊び(1917)クレラー・ミュラー美術館
(オランダ・オッテルロー)
三人の女性(1921)ニューヨーク近代美術館
余暇─ルイ・ダヴィッド讃(1948-1949)
パリ、国立近代美術館(ポンピドゥー・センター)
大パレード(1954)ニューヨーク、グッゲンハイム美術館
レジェ画面に戻る