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アルフォンス・ミュシャ(1860〜1939)
Alfons Maria Mucha


 1860年   7月24日、現在のチェコ共和国南モラヴィア地方のイヴァンチッツェに生まれる
        チェコ語ではアルフォンス・ムハ。

 1871年  ブルノの中学校に通う
        聖歌隊で後の作曲家レオシュ・ヤナーチェクと知り合う

 1873年  最初の公的な仕事、ウスチー・ナド・オルリツィ合唱団の聖歌集の表紙を描く

 1875年  変声期のため聖歌隊を続けることができなくなり故郷のイヴァンチッツェに戻る
        書記になってデッサンに励む。 

 1877年  プラハの美術アカデミーに入学を希望するが不許可

 1879年  広告に応募してウィーンに行き、舞台美術の工房で働き、夜はデッサン教室に通う

 1881年  12月10日、ウィーンのリング劇場焼失

        工房はミュシャを含むスタッフの一部を解雇

 1882年  ウィーンを去ってミクロフで土地の名士たちの肖像を描いて生計を立てる

 1883年  ミクロフの領主クーエン・ベラシ伯爵に雇われ、エマホフ城の食堂と図書室
        の絵画を修復する

        伯爵の弟がミュシャの最初のパトロンになる。

 1884年  クーエン伯爵の援助でミュンヘンに留学

 1885年  ミュンヘンの美術学校に入学

 1887年  パリに出る

 1888年  アカデミー・ジュリアンに入る

 1889年  アカデミー・コラロッシに移る。年末、伯爵の援助が突然打ち切られる

 1890年  フランスの雑誌に初めてミュシャの挿絵が登場

 1891年  ポール・ゴーガンと出会う

 1892年  「ドイツの歴史の諸場面とエピソード」の挿絵の依頼を受ける

 1894年  サロン・デ・ザルティスト・フランセに「ドイツの歴史の諸場面とエピソード」の
        挿絵の原画4点を出品、優秀賞牌を受ける

        「ジスモンダ」に主演するサラベルナールのために最初のポスターを制作。

 1895年  「ジスモンダ」のポスターがパリの街に貼りだされ、ミュシャの名声が高まる

        その後6年間サラ・ベルナールと契約を結ぶ

 1896年  最初の装飾パネル〈四季〉を制作

 1897年  最初のミュシャ個展が開催さる。 カタログ収録作品数107点

        サロン・デ・サンで2回目の個展開催。カタログ収録作品数448点

        「ラ・プリュム」誌個展期間中にあわせてはミュシャ特集号を刊行

        「トリポリの姫君イルゼ」出版、134点の挿絵を担当。

 1898年  パサージュ・スタニスラスで「紳士淑女絵画教室」を開講

        バルカン諸国を旅行。 「スラヴ叙事詩」の最初の構想を持つ

 1899年  1900年パリ万博に向けて、博覧会の公式カタログの表紙、ボスニア=ヘルツェ
        ゴビナ館の装飾、オーストリア=ハンガリー帝国のポスターなどの注文を受ける

 1900年  サラ・ベルナールとの契約終了

        パリ万国博覧会ボスニア=ヘルツェゴヴィナ館の装飾で銀賞を受ける

        フーケ宝飾店のためのデザインを始める

 1901年  パリのロワイヤル街にフーケ宝飾店が開店する

        レジオン・ド・ヌール勲章を授章

        チェコ科学芸術アカデミーの会員に推挙

 1902年  チェコの芸術家協会「マーネス」がプラハで大ロダン展を開催

        ミュシャは友人のオーギュスト・ロダンを伴いプラハとモラヴィアを訪ねる
        ロダンはモラヴィアの民俗芸能に驚嘆する

       「装飾資料集」刊行

 1903年  バリで未来の妻マルシュカ・ヒティロヴァに会う
        彼女は一時ミュシャの生徒だった。

 1904年  「クオ・ヴァディス」完成

        アメリカに招かれる

        祖国のための制作に専念する資金を得るため、上流社会の肖像画を描く

        「ニューヨーク・デイリーニューズ」紙がミュシャ特集号を出し、
        ミュシャは「友情」を発表

 1905年  「装飾人物集」刊行

        イラーセクの小説「すべてに抗して」を読みチェコの歴史や偉大さを絵画で
        表現することを決意する

        ニューヨークでチェコの名ヴァイオリニスト、ヤン・クーベリックと懇意になる

 1906年  マルシュカ・ヒティロヴァとプラハで結婚

        ハネムーンをボヘミア南西部で過ごす
        そこで〈真福八端〉を描き、妻マルシュカが絵の装飾を描く

        秋、妻と共にアメリカに出発。 シカゴの美術研究所で講義を始める

        ニューヨークの女子応用美術学校の教授に任命される

 1907年  ルーマニア皇帝より最高勲爵士授与

 1908年  「ハーモニー」など、ニューヨークのドイツ劇場のための装飾画を制作

        ボストン交響楽団のスメタナの連作交響詩「わが祖国」を聞き、スラヴの連帯を
        促進し芸術を通してスラヴ諸国の文化を広めるために生涯を捧げる決心をする

 1909年  娘ヤロスラヴァがニューヨークで生まれる

        チャールズ・R・クレインがミュシャの「スラヴ叙事詩」の計画に賛同し、財政援助に同意

 1910年  西ボヘミアのズビロフ城の一翼をアトリエと住まいとして借り、そこで18年間
        「スラヴ叙事詩」の制作を続ける。

 1911年  プラハ市民会館の壁画制作をはじめる

        アドリア海岸で「スラヴ叙事詩」の最初の油彩スケッチを描く

 1912年  「スラヴ叙事詩」の最初の3点が完成し、プラハ市に贈る

 1915年  息子イジーが生まれる

 1918年  チェコスロヴァキア共和国の新しい国章、郵便切手、紙幣をほとんど無償でデザインする

 1919年  5コルナ、100コルナ、120コルナ紙幣のデザインをする

        「スラブ叙事詩」の最初の11点をプラハ、クレメンティナムで展示

 1920年  アメリカヘ向けて出発

 1921年  「スラヴ叙事詩」5点をニューヨーク・ブルックリン美術館およびシカゴ美術館で展示、
        成功を収める

 1928年  「スラヴ叙事詩」20点をチェコ国民およびプラハ市に贈呈する用意があると発表
        これらの作品を産業博覧会の新会館で展示

 1931年  プラハ、聖ヴィタ大聖堂大司教礼拝堂のステンドグラスのデザイン、制作をする

 1936年  フランチシェック・クプカと共にパリのジュドポム美術館で作品展示

        ミュシャのカタログ収録作品数は139点

 1938年  肺炎にかかり、健康を害する

 1939年  ナチス・ドイツ、ボヘミアとモラヴィアを併合

        チェコスロヴァキア共和国は解体させられ、3月15日ドイツ軍がプラハに入場

        7月14日、プラハでミュシャ死去。享年78歳 

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