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石川滋彦(1909-1994)

 新制作協会会員の洋画家石川滋彦は3月7日午前9時8分、腎
不全のため東京都新宿区の国立国際医療センターで死去した。
1909年10月14日、東京都麹町区麹町4丁目5番地に洋画家石川
欽郎の長男として生まれ、少年期を湘南ですごす。
1927東京美術学校西洋画科に入学し岡田三郎助に師事。
同校在学中の1929第10回帝展に「湖畔の丘」で初入選。
同年同校を卒業して研究科に進学し、1932に同科を終了する。
1938第2回新文展に「信濃の鍛冶屋」を出品して特選となり翌年
第3回新文展には「迷彩する商船」を出品して2年連続特選とな
った。
同年光風会会員となる。
昭和17年、海軍に従軍して戦争記録画制作に従事する。
 戦争美術関係の展覧会では、1941の第2回聖戦美術展1943
の第1回陸軍美術展、国民総力決戦美術展に出品しており、ま
た1940の第4回海洋美術展、1941の第5回海洋美術展、1943
の第7回海洋美術展に出品している。
1947光風会から新制作派協会に移り同年会員となり以後同展
に出品。
1951日本の貨物船に乗り世界一周旅行をし、以後たびたび海
外へ赴く。
海や船を愛し、アムステルダム、ヴェネチア等水辺の風景を好
んで描き、1986「7月のアムステルダム」で第10回長谷川仁記念
賞を受賞。
明るく爽やかな緑色を基調とする穏健な画面を示す。
同60年東京セントラル絵画館で、1992日動画廊で個展を開催。
作品集に『石川滋彦・人と作品』(1975刊)があり、著書に
『日曜画家の油絵入門』(昭和37年実業之日本社刊)がある。
また昭和17年東京帝国大学工学部講師、同22年学習院大学講師
をつとめたほか東海大学教養学部などでも教鞭をとった。

石川滋彦年譜

1909 東京都麹町区麹町に洋画家石川欽一郎の長男として生
   まれる
   台北に移り台北師範付属小学校へ入学するが、一学年
   一学期を終わり東京の番町小学校に転校
   さらに小田原に移り、ついで鎌倉に転居
   鎌倉師範付属小学校を卒業する

1922 神奈川県立湘南中学に入学
   三学年一年間は関東大震災後の避難もかね、台北一中
   に移るもまた湘南中学に戻り卒業

1927 東京美術学校(現東京芸術大学)西洋画科入学
   岡田三郎助に師事

1929 第10回帝展に「湖畔の丘」を出品して入選

1932 東京美術学校西洋画科を卒業
   同校研究科に入学

1935 光風会展光風賞受賞

1936 西洋美術史の矢代幸雄先生のもと研究科を修了

1938 第2回文展に「信濃の鍛冶屋」を出品し特選
   (京都市立美術館所蔵)

1939 第3回文展に「迷彩する商船」を出品し特選
   文展無鑑査、光風会会員となる

1940 海洋美術展に「入港準備」を出品し海軍大臣賞を受ける
1942 東大工学部講師
   海軍報道班員としてジャワに派遣され、戦争記録画と
   して「バタビア沖海戦」を描く

1943 北京へ旅行
   海軍報道班員として第二南遣艦隊付と発令されていた
   が、ジャカルタ海軍武官府に派遣され、シンガポール
   とジャカルタを行き来する

1945 横須賀海兵団に召集
   終戦でおわる

1947 学習院講師となる
   第11回新制作展に出品、会員に推挙される
   以後新制作展出品

1952 あらすか丸という貨物船で神戸を出港し西回りで南米へ
   でかける

1955 明大工学部建築科講師となる

1956 船で出発、スエズ運河を通り10月はじめロンドンに着く
   その後欧州各地をまわり翌年帰国し個展を開く

1957 欧州作品展を開催、以来ほぼ毎個展開催

1959 NHK教育テレビで絵画教室を一年間にわたり放送

1960 志賀高原に度々取材

1966 カリフォルニア旅行、その後毎のように海外スケッチ旅
   行に行く
   晩年は初夏のアムステルダム運河風景を好んで描いた

1975 画集「石川滋彦・人と作品」刊行

1986 「7月のアムステルダム」で第10回長谷川仁記念賞受賞

1994 東京にて逝去 享年84歳

   新制作協会会員、日本美術家連盟常任理事

代表作
「信濃の鍛冶屋」(昭和13(1938)、第2回文展特選)
「迷彩する商船」(昭和14(1939)、第3回文展特選)
「入港準備」(昭和15(1940) 海洋美術展 海軍大臣賞)
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