辻永

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日展の初代理事長、翌年文化功労者に選ばれた日展の重鎮
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辻永「紀伊の海(油彩3号)」)
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 作家名 辻永
 制作年 1961
 技法 板に油彩
 絵サイズ 3号(縦21.2X横27.4cm)
 絵の状態 良  好
 額サイズ 縦40.2X横45.1cm
 額の状態 若干傷有
 サイン 辻永油彩筆サイン
 額の仕様 ブロンズ装飾額縁
 マット 麻布マット
格安卸価格9万2000円
税込99,360円

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辻永

辻永「湖畔微雨(油彩3号)」)
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 作家名 辻永
 技法 板に油彩
 絵サイズ 3号(縦21.2X横27.4cm)
 絵の状態 良  好
 額サイズ 縦39X横44cm
 額の状態 若干傷有
 サイン 辻永油彩筆サイン
 額の仕様 金装飾額縁
 マット 麻布マット
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辻永

辻永「洞爺湖初夏(油彩3号)」)

辻永
 作家名 辻永
 技法 板に油彩
 絵サイズ 3号(縦22X横27.3cm)
 絵の状態 良  好
 額サイズ 縦36.7X横42.2cm
 額の状態 新  品
 サイン 辻永油彩筆サイン
 額の仕様 金装飾額縁
 マット 麻布マット
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辻永

1884 2月20日広島県広島市に9人兄弟の7人目として生
   誕した父の辻永光は警察官であり、8か月後に永光
   が城県の兵事課に勤務地変更したことに伴い家族で
   茨城へ移り住んだ
   父の任地変更はその後土浦市を経て水戸市へと及ん
   だ

1888 4月に小学校へ入学したが怪我により通学後わずか
   2日で退学

1889 4月に再入学する

1995 茨城県立水戸中学校(茨城県立水戸第一高等学校)へ
   進学
   父が岡田郡長に就任したため永は家を出て下宿通学
   を経験した

1898 草花の写生を始めており、後に植物学者かまたは画
   家を志すことを希望している

1900 白馬会会員であり図画教師であった丹羽林平の自宅
   へ同居し油絵の指導を受け始めた

1901 東京美術学校油画科へ仮入学した
   このときの同級生のひとりに森田亀之助らがおり、ま
   また同科には和田三造、山下新太郎、青木繁、熊谷守
   一が在籍していた

1902 本科1年に進学し、はじめ岡田三郎助に師事

1903 同校画学生だった熊谷守一、和田三造、柳敬助、橋本
   邦助らと共に東京市下谷区に一戸建てを賃貸し、共
   同生活を始めた。

1904 第9回白馬会展に風景画を初出品

1905 同展出品作は東京美術学校買い上げとなった

1906 同校本科を卒業し研究科へと進学する
   夏には和田三造の実家福岡県へ出向き、熊本県の阿
   蘇山や長崎県などを共に旅行している
   またこのとき父が佐賀県に赴任しており、同地にて
   「父の像」「母の像」「残暉」などを描いた
   師事していた黒田清輝の勧めにより福井県の福井中
   学校(現福井県立藤島高等学校」に図画教師として
   任期1年で同地へ移住、赴任した

1907 中学図画教師としての任期を終え福井県から東京へ
   帰省3月に父を、9月に兄を失う

1908 渋谷村(現渋谷区)に母、次弟らと共に同居を開始
   する弟の光は山羊園として永光舎を開き、永は弟の
   山羊園で山羊を題材に作品制作を続けた
   10月開催の第2回文展に「秋」を出品した
   この頃より黄色の色彩に関心を示すようになる
   溜池白馬会研究所に入所、人体の研究も進めた

1909 第3回文展出品作「放牧」は李王家の買い上げとな
   った

1910 第4回文展出品作「飼はれたる山羊」は三等賞とな
   った

1911 第5回文展「朝の牧場」が落選、落選させた審査員へ
   の抗議の意味を込めて本郷春木町の仏教会館(後の
   本郷絵画研究所)で初の個展を開催した

1910 津田青楓、橋本邦助、柳敬助らと上林温泉に赴く

1912 青山熊治と犬吠埼に赴く

1912 単身相模吉浜へと写生旅行に赴く
   私生活では師のひとり岡田三郎助夫妻の媒酌により
   渡辺岩次郎の娘と結婚した

1913 第6回文展に「無花果畑」を出品、再度三等賞を受賞
   この作品は今村繁三により300円で売約となった
   第2回個展を赤坂三会堂で開催した。
   夏に弟の光夫婦とハルビン市にて1か月滞在し、こ
   のときに写生した作品「満州」を同年10月の第7回
   文展に出品、大正皇后の買い上げとなる。

1914 東京大正博覧会に「山羊の牧場」を出品し褒状
   妻を伴い再度ハルビンへ赴き、帰途に立ち寄った大
   連、京城で個展を開催
   第8回文展に「初秋」を出品、三等賞受賞

1915 サンフランシスコ万国博覧会に出品され銅牌を受け
   る「初秋」
   第9回文展「落葉」が三等賞受賞、文部省買い上げ

1916 第10回文展「葡萄実る頃」「椿と仔山羊」のうち「葡萄
   実る頃は「客観的写実からぬけでた新しい自然観照
   をみせるもの」と評され特選を受賞した
   後に日本橋の三越で開催した第6回個展にて「椿と
   仔山羊」と「林檎咲く」が文部省買い上げとなった

1918 光風会会員となる
   同期に南薫造、太田喜二郎など
   第6回光風会展に「晩春」「哈爾賓の二月」を出品
   文展出品も継続し、10月の第12回文展には「秋」
   を出品

1919 第1回帝展出品作「剪毛後の或日」が無鑑査推薦
   となる

1920 インド洋を経由する船旅でヨーロッパへの制作旅
   行に出発途中カイロ、マルセイユ、パリ、ノルマン
   ディー、イギリスを巡遊し、また途中9月から10月
   にかけては三宅克己とベルギー、オランダ、ドイツ
   などを巡った

1921 パリに居住、フランス各地で制作旅行を継続し7月
   に帰国」
   このヨーロッパ旅行中は新たな画法に挑戦した
   10月より雑誌「中央美術」に滞欧中に記していた日記
   の一部を掲載したところ評判を呼んだ」

1922 再び雑誌「中央美術」に「倉敷の名画を見る」を寄稿
   した
   滞欧中に制作した作品群は東京と大阪の三越にて個
   展を開催し展示した

1923 加藤静児と共に三重県志摩郡波切村に赴き制作を行
   った

1924 1月に母を、同年7月に師黒田清輝を失う

1925 南薫造と共に朝鮮に赴き京城、開城、平壌など各地
   で制作する傍ら、朝鮮総督府より朝鮮美術研究の委
   嘱を受けた
   雑誌「中央美術」に槐樹社展評論を寄稿したり、水戸
   常総新聞主催による常総洋画展に師岡田三郎助およ
   び山本鼎らと出席し「水辺の初冬」を特別出品した
   第4回朝鮮美術展の審査員を務めた
   明治神宮外苑聖徳記念絵画館壁画揮毫を依嘱される
   (1936に完成)

1926 第5回展、1927第6回展でも審査員を務めた

1927 朝日新聞社主催による17万人を超える入場者を集
   めた明治大正名作展に辻の「無花果畑」「ベルギーに
   て」が選出された

1929 16回光風会展に「春の日」など7点を出品し、また
   同展特別陳列故山本森之助への追悼文が2月4日付
   の読売新聞紙面に掲載された
   弟の衛が自動車事故で死去
   昭和御大礼奉祝に、保田善次郎献上として「放牧」を
   描いた

1930 第2回聖徳太子奉讃美術展にて審査員を務め、同展
   に「湖畔の秋」を出品

1931 平凡社より30年間の写生植物画のうち約1000種を
   選出した「萬花図鑑」全8巻を刊行した

1932 国立公園協会の依頼により北海道の釧路および阿寒
   湖付近に写生旅行し、「摩周湖風景」「阿寒双湖台より」
   などを制作した
   このとき赴いた無名地にそれぞれ「双湖台」「又嶽台」と
   命名している
   再び平凡社より約500種の花写生画を収録した「續萬花
   図鑑」4巻を刊行した

1933 光風会評議員に就任

1934 第15回帝展審査員となり、同展出品作「哈爾賓風景」が
   政府買い上げとなる

1935 東京地方裁判所に依頼された風景画が完成し、以後同
   所に展示されている

1935 帝展改組に対し小林萬吾、石川寅治、金山平三、田辺
   至らと共に不出品の声明を発表する
   雑誌『現代美術』に随筆「チビの死」を発表した
   帝展反対を表明する新団体「第二部会」を結成
   第二部会第1回会展審査員を務めた

1936 6月の帝展再改組のため、第二部会文展に辻も参加を
   表明
   同年文展監査展の審査を行った

1937 大阪市立美術館で開催された明治大正昭和三聖代名作
   美術展に「無花果畑」が選出され出品された
   「辻永邦風油彩花卉画集」が美術工芸会から刊行された
   展再改組によって新しくなった第1回文展に審査員と
   して参加、「志賀高原の秋」を出品、京都市美術館買い上
   げとなる

1939 9月、師岡田三郎助死去

1940 紀元二千六百年奉祝美術展の委員となり、同展に「秋映
   ゆ」を出品

1941 フランス領インドシナ半島に赴いたが政情不安定のた
   め直ちに帰国した

1942 台湾総督府美術展審査のため制作を兼ねて台湾に赴き
   11月に帰京した
   美術団体連盟解消に伴い新しく結成された美術家連盟
   に辻も他作家40余名と共に参加

1943 横山大観を会長とする日本美術報国会が設立
   木村荘八と共に同会第二部委員に選出された

1944 第1回軍事援護美術展に「匂ふ山桜」を出品
   戦時特別文展には「箱根の秋」を出品

1945 5月、空襲のため住居が焼失した
1946 文展から日展となった第1回展に「錦秋」を出品
   第2回日展では審査員を務めた
   旧岡田三郎助画室を譲り受け移住した

1947 帝国芸術院(現日本芸術院)会員となる

1949 日展運営委員会常任理事に就任

1954 日本橋島屋で辻永古稀記念展、辻永画業50年記
   念展が開催

1955 日本芸術院の第一部長に就任
   日本スポーツ芸術協会理事にも就任
   平凡社『萬花譜』全12巻刊行が開始された

1956 光風会が社団法人化し、理事に就任した
   日本芸術院第一部長を辞任

1957 文化勲章及び文化功労者年金受賞者選考委員を委
   嘱される

1958 社団法人日展初代理事長に就任
   第1回日展で審査委員長を務めた

1959 文化財専門審議会第三分科会専門委員となる
   文部省による優秀美術品買上制度施行の際には初
   代買上作品選考委員として今泉篤男、河北倫明ら
   と共に選任された    再度日本芸術院第一部長に推挙され
   文化功労者として顕彰を受る
   日本芸術院第一部長は1962にも推挙され三選とな
   っている

1961 東京オリンピック組織委員会以下に設けられた芸術
   展示特別
   委員会の委員委嘱26名に選出された

1964 罹病し築地聖路加病院に入院
   入院中の11月に勲二等瑞宝章受章

1965 1月に退院し、以後自宅療養となる
   紺綬褒章受章

1968 明治百年記念茨城県特別功績者として表彰を受ける

1974 7月23日、心不全のため東京都渋谷区の自宅で死去
   享年90歳

2016 辻永と師である岡田三郎助と妻八千代の姿が生前
   16ミリフィルムで撮影されたものをもとにドキュ
   メンタリー映画「あるアトリエの100年」が山崎欽
   毅監督らによって製作された

大正末期から平明温和な風景画を多く制作、また植物を
愛好し「万花譜」12巻を刊行

著書
洋画一斑 橋本邦助共著 服部書店 1905
洋画を描かんとする人々に 時潮社 1920
裂地と版畫 南薫造、太田三郎共編 巧藝社 1928
萬花図鑑 全8巻 平凡社 1930
萬花図鑑 続一集 - 続四集 平凡社 1932
辻永作品集 辻永作品集刊行会 1954
辻永 美術出版社 1959
辻永画集 六藝書房 1991
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