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フジ子ヘミングIngrid Fuzjko Von Georgii-Hemmingイングリッド・フジ子・フォン・ゲオルギー=ヘミング 日本とヨーロッパ・アメリカで活躍するピアニストである。 父親はロシア系スウェーデン人画家・建築家のヨスタ・ゲオル ギー・ヘミング。母親は日本人ピアニストの大月投網子(とあ こ)。俳優の大月ウルフは実弟。歌手の橋本潮は従姪にあたる。 ヴァイマル共和政下のドイツ、ベルリンで生まれる。スウェ ーデン国籍(長らく無国籍の状態が続いた)。幼少期に日本 に移住したが、父は日本に馴染めず、家族3人を残し一人スウ ェーデンに帰国してしまう。以来、母と弟と共に東京で暮ら し、5歳から母:投網子の手ほどきでピアノを始める。また10 歳から、父の友人であり、ドイツで母がピアノを師事したロ シア生まれのドイツ系ピアニスト、レオニード・クロイツァ ーに師事する。以後、藝大在学時を含め、長年の間クロイツ ァーの薫陶を受ける。 青山学院緑岡尋常小学校(現:青山学院初等部)3年生の時に ラジオに生出演し、天才少女と騒がれる。1945年2月、家族と 共に岡山に疎開する。同年4月、岡山県の高等女学校に入学し 、そのまま学徒動員される。 終戦後、青山学院高等女学部(現青山学院中等部)に転校。 青山高女5年修了で、新制青山学院高等部3年に進級する。 高等部在学中、17歳で、デビューコンサートを果たす。 東京藝術大学音楽学部在学中の、1953には新人音楽家の登竜 門である、第22回NHK毎日コンクールに入選をはたし、さら に文化放送音楽賞など、多数の賞を受賞した。東京藝術大学卒 業後、本格的な音楽活動に入り、日本フィルハーモニー交響 楽団など多数のオーケストラと共演。かねてよりピアノ留学 を望んでいたが、パスポート申請時に無国籍であったことが 発覚する。 その後、留学の機会をうかがいつつピアニストとして音楽活 動を行っていたが、1961に、駐日ドイツ大使の助力により、 赤十字に認定された難民として国立ベルリン音楽大学(現ベ ルリン芸術大学)へ留学を果たした。卒業後、ヨーロッパに 残って各地で音楽活動を行うも、生活面では母からのわずか な仕送りと奨学金で何とか凌いでいたという、大変貧しく苦 しい状況が長らく続いた。フジコは「この地球上に私の居場 所はどこにもない...天国に行けば私の居場所はきっとある」 と自身に言い聞かせていたと話している。 その間、ウィーンでは後見人でもあったパウル・バドゥラ= スコダに師事した。また、作曲家・指揮者のブルーノ・マデルナ に才能を認められ、彼のソリストとして契約した。しかしリ サイタル直前に風邪をこじらせ(貧しさで、真冬の部屋に暖 房をつけることができなかったためとしている)、聴力を失う というアクシデントに見舞われ、やっとの思いで掴んだ大き なチャンスを逃すという憂き目を見た。 既に16歳の頃、中耳炎の悪化により右耳の聴力を失っていた が、この時に左耳の聴力も失ってしまい、演奏家としてのキ ャリアを一時中断しなければならなくなった。失意の中、ス トックホルムに移住する。耳の治療の傍ら、音楽学校の教師 の資格を得て、以後はピアノ教師をしながら欧州各地でコン サート活動を続ける。現在、左耳は40%回復している。 母の死後、1995年に日本へ帰国し、母校東京藝大の旧奏楽 堂などでコンサート活動を行う。 1999年2月11日にNHKのドキュメント番組『ETV特集』「フ ジコ-あるピアニストの軌跡-」が放映されて大きな反響を呼 び、フジコブームが起こった。その後、発売されたデビュー CD「奇蹟のカンパネラ」は、発売後3ヶ月で30万枚のセールス を記録し、日本のクラシック界では異例の大ヒットとなった。 第14回日本ゴールドディスク大賞の「クラシック・アルバム・ オブ・ザ・イヤー」他各賞を受賞した。 やがて、1999年10月15日の東京オペラシティ大ホールでの 復活リサイタルを皮切りに、本格的な音楽活動を再開し、国内 外で活躍することとなる。2001年6月7日にはカーネギー・ ホールでのリサイタルを披露する。現在、ソロ活動に加え、 海外の有名オーケストラ、室内楽奏者との共演と活躍は続く。 また、2003年10月17日に、フジテレビ系で波瀾万丈の半生 がテレビドラマ化された。スペシャルドラマ「フジ子・ヘミ ングの軌跡」はフジ子役を菅野美穂が演じて、20.1%の高視 聴率を記録した。 2013に自身のCDレーベル「ダギーレーベル」を発足。アルバム 第1作「フジコヘミング スペインカメラータ21オーケストラ」 を国内外でリリースCatalunya(CatMusica/CatalunyaRadio) でリスナーの支持により1位に選ばれた。 毎年、世界各地でコンサートを行っているが、2019年3月8日 にはパリの有名コンサートホール「Salle Gaveau」でリサイ タルを開く。 2021年12月、ポートレート写真や折々に描いた絵画が元にな った郵便切手が発売された。 フジコは菜食主義者、クリスチャンとして知られている。 幼い頃から母に言われて教会に通っていたが、ドイツ留学中 に近所のカトリック教会の司祭の歌声に惹かれて受洗。食物 の中で特に好むのはジャガイモであるとされる。 20歳からずっと愛煙家である。 ピアノ演奏以外の趣味は絵画、裁縫、書、水泳などで、バレエや 映画の鑑賞も好んでいる。絵に関しては画家であった父の影 響もあり幼少時から得意としており、現在までに書き溜めた 絵は本やCDのジャケットで使われている。個展を開くことも ある(2001年2月5日 - 2001年2月24日「幻の素描展」より) 愛猫家、愛犬家の動物愛護家である。 東京育ちであるが、母の影響で言葉の端々に関西弁が出るこ とがある。 フジ子ヘミング年譜 1932 12月5日スウェーデン人の父と日本人の母の もとベルリン生まれる 1937 ベルリンより帰国 母の手ひとつで東京に育ち、母大月投網子の手 ほどきでピアノを始めるまた 1942 父の友人のピアニスト、レオニードクロイツア ー氏に師事 幼少のころより天才ピアニストとして周囲から 注目される 以後芸大在学時を含め、長年にわたりクロイツ アー氏の薫陶を受ける 1939 青山学院高等部在学中、17歳でデビューコンサ ートを果たす 東京芸大在学中には、毎日コンクール入賞 文化放送音楽賞など多数受賞 東京芸大卒業後より、本格的な演奏活動に入り 、渡辺暁雄指揮による日本フィル等、数多くの 国内オーケストラと共演 1948 中耳炎の悪化により右耳の聴力を失う 1951 ドイツへ留学 ベルリン音楽学校を優秀な成績で卒業 1997 ブロンズ像「人魚」制作(沖縄、ホテルムーン その後長年にわたりヨーロッパに在住し演奏家 としてのキャリアを積むも、生活面では母から の僅かな仕送りと奨学金で何とか凌いでだ ウィーンでは後見人でもあったパウル・バドゥ ーラ=スコダに師事 今世紀最大の作曲家・指揮者の一人と言われる、 ブルーノマデルナにウイーンで才能を認められ 、彼のソリストとして契約したことは、フジ子 が最も誇りにしていることのひとつであるこの 契約に際しては、フジ子の演奏に感銘を受けた レナード・バーンスタインからの支持、及び援 助があった リサイタル直前に風邪をこじらせ残っている左 耳の聴力をも失う耳の病のため演奏家のキャリ アを一時中断せざるを得ず、失意の中、ストッ クホルムに移住 耳の治療の傍ら、音楽学校の教師の資格を得る 以後はピアノ教師をしながら、欧州各地でコン サート活動を続ける 現在は左耳の聴力のみ約40%回復している 1995 母大月投網子の死後、日本に帰国 母校である東京芸大の旧奏楽堂などでコンサー ト活動を行う 1999 NHKのドキュメント番組ETV特集「フジ子〜あ るピアニストの軌跡〜」が放送される 番組は大反響を巻き起こし、NHKには2000通 を超える投書が寄せられた その後「フジ子ふたたび-コンサートin奏楽堂-」 も放送され、さらなる反響を呼ぶ ファーストCD「奇蹟のカンパネラ」は発売後3ヶ 月で30万枚を売り上げる 第14回日本ゴールドディスク大賞の「クラシ ックアルバム・オブ・ザ・イヤー」受賞 10月15日東京オペラシティ大ホールでの復活リ サイタルを皮切りに本格的な音楽活動を再開 2001 6月7日にはカーネギー・ホールでのリサイタ ルを披露する 2003 10月17日、フジテレビ系で波瀾万丈の半生 がテレビドラマ化される スペシャルドラマ「フジ子・ヘミングの軌跡」 はフジ子役を菅野美穂が演じる 2013 自身のCDレーベル「ダギーレーベル」を発足 アルバム第1作「フジ子ヘミング スペインカメ ラータ21オーケストラ」を国内外でリリース 2016 「たどり着く力」幻冬舎より発刊 今販売されているCDは、クラシックの世界で売り上 げもトップを独走し続けており、その演奏スタイルは 「リストとショパンを弾くために生まれたピアニスト」 と評される 本人が最も得意とする曲、リストの「ラ・カンパネラ」 は最も技巧を必要とする高難度な曲とされるが、正確 で完璧な演奏を嫌うフジ子は、譜面に忠実でない独特 のリズムで繊細かつ情熱的、情味たっぷりに演奏する 苦難の人生を生き抜いてきた真実味が滲み出ているよ うな血の通ったその音色は「魂のピアニスト」と評され る所以である |