藤田嗣治(1886-1968)得意な画題とし、日本画の技法を油彩画に取り入れつつ 、独自の「乳白色の肌」とよばれた裸婦像などは西洋画 壇の絶賛を浴びた。エコール・ド・パリの代表的な画家 である。 1886、東京市牛込区(現東京都新宿区)新小川町の医者の 家に4人兄弟の末っ子として生まれた。父・藤田嗣章(つ ぐあきら)は、大学東校(東京大学医学部の前身)で医学 を学んだ後、軍医として台湾や朝鮮などの外地衛生行政 に携り、森鴎外の後任として最高位の陸軍軍医総監(中将 相当)にまで昇進した人物。祖父の藤田嗣服は元田中藩 士。曽祖母は江戸時代の文人画家春木南湖の血筋である。 兄の嗣雄は朝鮮総督府や陸軍省に在職した法制学者・上 智大学教授で、陸軍大将児玉源太郎の四女と結婚。また 、義兄(姉たちの夫)に、父の元部下でのちに陸軍軍医総監 となった中村緑野(中原中也の名づけ親)、芦原甫の養子 ・信之(医師)がいる。小山内薫は嗣治の従兄、舞踊評論 家の蘆原英了と建築家の蘆原義信は甥にあたる。又、遠 い親戚に千葉雄大がいる。 藤田嗣治は子供の頃から絵を描き始める。父の転勤に伴 い7歳から11歳まで熊本市で過ごした。小学校は熊本県師 範学校附属小学校(現熊本大教育学部附属小)に通った。 1900、高等師範附属小学校(現在の筑波大学附属小学校) を、1905に高等師範附属中学校(現在の筑波大学附属中 学校・高等学校)を卒業。この頃には、画家としてフランス へ留学したいと希望するようになる。 1905、森鴎外の薦めもあって東京美術学校(現在の東京 藝術大学美術学部)西洋画科に入学する。しかし当時の 日本画壇はフランス留学から帰国した黒田清輝らのグル ープにより性急な改革の真っ最中で、いわゆる印象派や 光にあふれた写実主義がもてはやされており、藤田の作 風は不評で成績は中の下であった。表面的な技法ばかり の授業に失望した藤田嗣治は、それ以外の部分で精力的 に活動し、観劇や旅行、同級生らと授業を抜け出しては 吉原遊廓に通いつめるなどしていた。1910に同校を卒業。 卒業に際して製作した「自画像」(東京芸術大学所蔵) は、黒田が忌み嫌った黒を多用しており、挑発的な表情 が描かれている。なお精力的に展覧会などに出品したが 、当時黒田清輝らの勢力が支配的であった文展などでは 全て落選している。 1911、長野県の木曽へ旅行し「木曽の馬市」や「木曽山」の 作品を描き、また薮原の極楽寺(木祖村)の天井画を描い た(現存)。この頃女学校の美術教師であった鴇田登美子 (鴇田とみ)と出会って、2年後の1912に結婚。鴇田ととも に榛名湖(群馬県)などを訪れた際に描いたと思われる 油彩画「榛名湖」が2017、鴇田の生家(千葉県市原市)の 解体中の蔵から発見されている。 新宿百人町にアトリエを構えるが、フランス行きを決意 した藤田嗣治は妻を残して単身パリへ渡航。最初の結婚 は1年余りで破綻する。 1913、に渡仏し、パリのモンパルナスに居を構えた。当時 のモンパルナス界隈は町外れの新興地に過ぎず、家賃の 安さで芸術家、特に画家が多く暮らしていた。藤田嗣治 は、隣の部屋に住んでいて後に「親友」と呼んだアメデオ・ モディリアーニやシャイム・スーティンらと知り合う。 また彼らを通じて、後のエコール・ド・パリのジュール・ パスキン、パブロ・ピカソ、オシップ・ザッキン、モイズ・ キスリング、ジャン・コクトーらと交友を結びだす。 フランスでは「ツグジ」と呼ばれた(嗣治の読みをフラ ンス人にも発音しやすいように変えたもの)。 また、同じようにパリに来ていた川島理一郎や、島崎藤村 、薩摩治郎八、金子光晴、岡田謙三ら日本人とも出会って いる。このうち、フランス社交界で「東洋の貴公子」と もてはやされた、大富豪の薩摩治郎八との交流は藤田の 経済的支えともなった。 パリでは既にキュビズムやシュールレアリズム、素朴派 など、新しい20世紀の絵画が登場しており、日本で「黒田 清輝流の印象派の絵こそが洋画」だと教えられてきた藤 田嗣治は大きな衝撃を受ける。この絵画の自由さ、奔放 さに魅せられ、今までの作風を全て放棄することを決意 した。「家に帰って先ず黒田清輝先生ご指定の絵の具箱を 叩き付けました」と藤田は自身の著書で語っている。 1914、パリでの生活を始めてわずか1年後に第一次世界 大戦が勃発。日本からの送金が途絶え、生活は貧窮した。 戦時下のパリでは絵が売れず、食事にも困り、寒さのあ まりに描いた絵を燃やして暖を取ったこともあった。 そんな生活が2年ほど続き、フランス領内に侵攻していた ドイツ軍が守勢に転じて大戦が終局に向かい出した1917 年3月、カフェで出会ったフランス人モデルのフェルナン ド・バレエと2度目の結婚をした。この頃に初めて藤田の 絵が売れた。最初の収入は、わずか7フランであったが、 その後少しずつ絵は売れ始め、3か月後には初めての個展 を開くまでになった。 シェロン画廊で開催されたこの最初の個展では、著名な 美術評論家であったアンドレ・サルモン(Andre Salmon) が序文を書き、良い評価を受けて、すぐに絵も高値で売 れるようになった。翌1918年に第一次世界大戦が終結。 戦後の好景気に合わせて多くのパトロンがパリに集まっ て来ており、この状況が藤田嗣治に追い風となった。 面相筆による線描を生かした独自の技法による、独特の 透きとおるような画風はこの頃に確立。以後、サロンに出 す度に黒山の人だかりができた。サロン・ドートンヌの審 査員にも推挙され、急速に藤田嗣治の名声は高まった。 当時のモンパルナスにおいて経済的な面でも成功を収め た数少ない画家であり、画家仲間では珍しかった熱い湯 の出るバスタブを据え付けた。多くのモデルがこの部屋 にやって来てはささやかな贅沢を楽しんだが、その中に はマン・レイの愛人であったキキも含まれている。彼女は 藤田のためにヌードとなったが、その中でも「寝室の裸婦 キキ(Nu couche a la toile de Jouy)」と題される作品 は、1922のサロン・ドートンヌでセンセーションを巻き 起こし、8000フラン以上で買いとられた。 このころ、藤田嗣治はフランス語の綴り「Foujita」から 「FouFou(フランス語でお調子者の意)」と呼ばれ、フラン スでは知らぬ者はいないほどの人気を得ていた。 1925、にはフランスからレジオン・ドヌール勲章、ベル ギーからレオポルド勲章を贈られた。 2人目の妻、フェルナンドとは急激な環境の変化に伴う不 倫関係の末に離婚し、藤田嗣治自身が「お雪」と名づけた フランス人女性リュシー・バドゥと結婚。リュシーは教養 のある美しい女性だったが酒癖が悪く、夫公認で詩人の ロベール・デスノスと愛人関係にあり、その後離婚する。 1931には、新しい愛人マドレーヌ(Madeleine Lequeux 1910 - 1936)を連れて個展開催のため、南北アメリカ へに向かった。 ヨーロッパと文化、歴史的に地続きで、藤田嗣治の名声 も高かった南アメリカで初めて開かれた個展は大きな賞 賛で迎えられ、アルゼンチンのブエノスアイレスでは6 万人が個展に訪れ、1万人がサインのために列に並んだ といわれる。 マドレーヌは戸塚の家で脳溢血で急死した。 その後、1933に南アメリカから日本に帰国、1935に25 歳年下の君代(1911-2009)と出会い、一目惚れして翌年 5度目の結婚をして、終生連れ添った。1936、旧友ジャン・ コクトーが世界一周の旅で日本に滞在した際藤田と再会 し、相撲観戦や夜の歓楽街の散策を供にした(その時藤田 の案内で学生絵画グループ「表現」が銀座の紀伊国屋画廊 で開催していた展覧会を訪れ、ジャン・コクトーが大塚 耕二の作品を称賛した) 1938からは1年間、小磯良平らとともに従軍画家として 日中戦争中の中華民国に渡り、1939に日本に帰国した。 その後再びパリへ戻ったが、同年9月には第二次世界大戦 が勃発。翌年5月23日、ドイツにパリが占領される直前に パリを離れ、同年7月7日、再度日本に帰国した。その後 、太平洋戦争に突入した日本において陸軍美術協会理事 長に就任することとなり、戦争画の製作を手掛けた。 南方などの戦地を訪問しつつ「哈爾哈(ハルハ)河畔之 戦闘」(題材はノモンハン事件)や「アッツ島玉砕」(アッツ 島の戦い)などの作品を書いた。 このような振る舞いは、終戦後の連合国軍占領下の日本 において「戦争協力者」と批判されることもあった。ま た、陸軍美術協会理事長という立場であったことから、 一時はGHQからも聴取を受けるべく、身を追われること となり、千葉県内の味噌醸造業者の元に匿われていたこ ともあった。その後、1945年11月頃にはGHQに見い出さ れて戦争画の収集作業に協力させられている。こうした 日本国内の情勢に嫌気が差した藤田嗣治は、1949に日本 を去ることとなる。 傷心の藤田嗣治がフランスに戻った時には、既に多くの 親友の画家たちがこの世を去るか亡命しており、フラン スのマスコミからも「亡霊」呼ばわりされるという有様 だったが、その後もいくつもの作品を残している。その ような中で再会を果たしたパブロ・ピカソとの交友は晩 年まで続いた。1955にフランス国籍を取得(その後、日本 国籍を抹消)。1957、フランス政府からレジオン・ドヌ ール勲章シュバリエ章を贈られた。 1959にはランスのノートルダム大聖堂でカトリックの洗 礼を受け、シャンパン「G.H.マム」の社主のルネ・ラルー と、「テタンジェ」のフランソワ・テタンジェから「レオナ ール」と名付けてもらい、レオナール・フジタとなった。 またその後、ランスにあるマムの敷地内に建てられた「 フジタ礼拝堂」の設計と内装のデザインを行った。1968 にスイスのチューリヒにおいて、ガンのため死亡した。 遺体は「フジタ礼拝堂」に埋葬された。日本政府から勲 一等瑞宝章を没後追贈された。 藤田嗣治の最期を看取った君代は、自身が没するまで藤 田旧蔵作品を守り続けた。パリ郊外のヴィリエ・ル・バク ルに旧宅を「メゾン・アトリエ・フジタ」として開館に 向け尽力。晩年には個人画集・展覧会図録等の監修も行 った。2007に東京国立近代美術館アートライブラリーに 藤田嗣治の旧蔵書約900点を寄贈し、その蔵書目録が公開 された.。藤田の死去から40年余りを経た2009年4月2日に 東京にて98歳で没した。遺言により遺骨は夫嗣治と共に ランスの「フジタ礼拝堂」に埋葬された。君代夫人が所有 した藤田作品の大半はポーラ美術館とランス美術館に収 蔵されている。 2011、君代が所蔵していた藤田嗣治の日記(1930-1940、 1948〜1968までで、戦時中のものは未発見)及び写真、 16mmフィルムなど6000点に及ぶ資料が母校の東京芸 術大学に寄贈されることが発表され、今後の研究に注目 が集まっている。 2015日本フランス合作の伝記映画「FOUJITA」(小栗康平 監督)が公開され2018には「没後50年藤田嗣治展」が東京 と京都で開催されるなど、再評価の機運が高まっている。 藤田嗣治年譜 1886 東京市牛込区(現東京都新宿区)新小川町の医者 の家に4人兄弟の末っ子として生まれた 1905 東京美術学校西洋画科入学 1910 東京美術学校西洋画科卒業 1913 渡仏 ピカソ、モジリアニ、スーチンらと交遊 1919 サロンドートンヌに出品し全作品入選会員に推挙 1921 サロンドートンヌの審査員に挙げられる 1925 レジオン・ド・ヌール5等勲章を贈られる 1926 サロン・ナショナル・デ・ボザールの審査員となる 1929 帰国、東京で盛大な個展を開催し、大成功を収める 1934 二科会会員となる 1940 第二次大戦の戦火の下、パリから帰国 1941 帝国芸術院会員となる 1943 朝日文化賞受賞 1945 疎開先の神奈川県津久井郡小淵村で終戦を迎える 1949 渡米の後、パリへ戻る 1950 パリ国立近代美術館に代表作を寄贈 1955 フランス国籍を取得し、パリ市民となる 1957 レジオン・ドヌール四等勲章を贈られる 1959 君代夫人と共にカトリックの洗礼を受ける ベルギー王立アカデミー会員となる 1966 設計・美術すべての分野に専念したランスの ノートルダムド・ラ・ペ・フジタ礼拝堂が完成 1968 チューリッヒにて逝去、享年82歳 日本政府より勲一等瑞宝章を追贈される |