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池田満寿夫版画家・挿絵画家・彫刻家・陶芸家・作家・映画監督などの従来 の芸術の枠にとどまらず多彩に活躍した芸術家。エロスの作 家といわれるように、官能的な作風が多い。しかし、多岐に わたる活動や多才さは、かえって“池田芸術”の高い知名度に ふさわしい正当な評価を困難にしている。 旧満州国奉天市(現在の瀋陽市)に生まれ、戦後長野県長野市 で育つ。長野市立柳町中学校、長野北高等学校(現長野県長野 高等学校)定時制課程卒業。高校在学中に絵画が入選、画家 を志し上京するが、東京芸術大学の受験に2度失敗し芸大進学 を断念し早稲田大学に入学。芸大入試の希望科のうち、1回は 油絵科志望、2回は彫刻科だった。早稲田大学在学中に下宿先 の娘と結婚入籍、通学の傍ら酒場で似顔絵を描いて生活費を 稼ぐ生活を続けた。19歳の時出品した作品が自由美術家協会 展に入選。その後、画家、瑛九の勧めで色彩銅版画の作製に 取り組む。この時期、平井蒼太主宰の真珠社から豆本のシリー ズを刊行。1957に東京国際版画ビエンナーレ展に入選。 1960には同展で文部大臣賞を得て脚光を浴びた。 1961には、上野・不忍画廊で初の個展を開く。1965には、ニュ ーヨーク近代美術館で日本人として初の個展を開き、話題と なる。1966、32歳のとき、棟方志功に次いで版画家としては 最高権威のヴェネツイア・ビエンナーレ展版画部門の国際大 賞を受賞。池田満寿夫の名を国際的にも第一線の芸術家にし た。 版画のドライポイントでは、パウル・クレーやウィレム・デ・ク ーニングに加え、雪舟、水墨画の影響も受けていた。東京国際 版画ビエンナーレ展などで、外国人審査員が評価したのは池 田作品の中に“東洋の影”を見たからである。 後に水彩画や文学方向にも関心が傾く。1977には「エーゲ海に 捧ぐ」で芥川賞を受賞。この「エーゲ海に捧ぐ」は、絵画・歌・小 説・映画とマルチな分野で池田自身の手によって現され、非常 に話題となった(映画の主演は、のちにイタリアの国会議員 にもなったチッチョリーナことシュターッレル・イロナ)官能 的な女性を描かせたら、当代一であったといわれる。制作した 版画は1000点余り、陶芸作品は3000点を超えるとみられる。 1980代以降は、テレビにも盛んに出演、人気クイズ番組日立 世界・ふしぎ発見!の準レギュラーなどで一般大衆への知名度 もアップし、文化人としても活躍したが、晩年、陶芸制作に 没頭したことはあまり知られていない。1965に初訪米したと きから、米国陶芸界の第一人者であるピーター・ヴォーコスと 交流。帰国後の1983から陶芸にも没頭した。死の3年前に制作 した般若心経シリーズの作品は池田満寿夫の陶芸作品の中で 最高傑作といわれる。 般若心経という精神世界を平面ではなく、立体的に造形化した。 地蔵や佛塔の作品などは、エロスの作家といわれた池田版画の イメージとは全く異なる。池田満寿夫の陶芸作品はあえて割れ るように制作したのが特徴であり、池田本人は"破壊の美学"と 述べている。 国際的に精力的な創作活動を展開し、多忙な生活を送ってい たが、1997年3月8日、静岡県熱海市の自宅にいたところ地震に 遭遇し、愛犬に飛びつかれて昏倒、心不全にて急逝。享年63歳 4月に、長い期間、担当していた多摩美術大学客員教授から、 多摩美術大学教授(専任)への就任が内定しており、後進の 指導にも本格的に当たろうとしていた矢先の死だった。 19歳で入籍した女性が離婚に応じなかったため、生涯戸籍上 の妻はこの女性のみで、その後に同居した作家富岡多恵子や バイオリニスト佐藤陽子などは内縁の妻だった。ただし、画家 であった米国人女性とは国外で正式に入籍している。終生連 れ添うことになる佐藤とはおしどり夫婦として知られ、池田 の講演と佐藤の演奏をセットにした催しなども行っていた。 主な所蔵作品は、長野市の池田満寿夫美術館、三重県三重郡菰 野町のパラミタミュージアム、熱海市の池田満寿夫・佐藤陽子 創作の家と池田満寿夫記念館でそれぞれ常設展示されている。 京都市の京都国立近代美術館は佐藤陽子から寄贈された版画 作品を所蔵する。広島市現代美術館、長野県立美術館は池田 作品のコレクションを所有。 池田が挿絵家としても一流だったことはいまでは忘れられて いる。カット類をまとめると1000点を超えるとみられる。コ ラージュは新聞紙、雑誌、布などを組み合わせて貼り付ける 手法だが、池田は版画制作を始める前にコラージュを手掛け 、カット、版画などに活用するようになった。1960代〜70代、 池田満寿夫の作品はイラストレーターやグラフィック・デザ イナーに刺激を与えた。 池田満寿夫のカット、コラージュの全容の一部が分かるのが、 池田満寿夫著「コラージュ アフォリズム」(1986、創樹社)であ る。300点強のカット、コラージュを収録。カットや版画作品を 見ると、池田満寿夫が作品制作にコラージュの手法を多用し ていることが分かる。コラージュは池田満寿夫の制作活動の 基本的な手法の一つとなっている。「コラージュ論」(1987、白 水社)を著している。 1961以降、岩波書店発行の雑誌「世界」とPR誌「図書」、「朝日ジ ャーナル」、新聞・雑誌にカットを描いていたが、芥川賞受賞以 降は出版社が遠慮して注文自体が少なくなった。 国立国会図書館新館ロビーに設置されたタピスリー・コラー ジュ「天の岩戸」(1986)が著名だ。天女が空へ舞い上がる イメージで制作された西陣織を使った「天女乱舞A」(1987、 池田満寿夫美術館蔵)は親友の澁澤龍彦へのオマージュとし て完成させた。 高校2年のとき、油彩「橋のある風景」(池田満寿夫美術館蔵) が第1回全日本学生油絵コンクールでアトリエ賞を受賞した。 高校卒業後、画家を目指して上京したが、公募展に出品した 油彩作品は世に認められなかった。版画を始めた後も、しばら くの間、油絵を制作。約20年間中断し、80代以降は、アクリルで まず下絵・原画を描いてから版画制作に取り掛かる手法を用 いたこともあった。雑誌「婦人公論」「月刊現代」の表紙を飾っ た女性像はアクリルだ。 池田満寿夫の油彩は、中学、高校時代、20代以降で大きな振幅 を示すユトリロやヴラマンク、モディリアニ、佐伯祐三、松本 俊介にあこがれた少年時代は灰色調だったが、その後、原色を 使用し、さらに、ピカソ風、シュルレアリスム風、抽象などへ作 風が揺れ動いた。アクリルの表紙画は具象性、写実性が強い。 亡くなる約半年前、池田は東京・新宿の画材店で、油絵の材料 を大量に購入し、「これから油絵をしよう」と話していたとい う。死後、熱海市のアトリエのイーゼルには100号のアクリル 作品3点が未完のまま残されていた。 一方、水彩には50年代に描かれたカンディンスキー風の小品 や大作「美しさと哀しみと」(1965、不忍画廊蔵)がある。 「みづゑ」表紙や1977、野性時代新人文学賞を受賞した角川書 店発行の『エーゲ海に捧ぐ』の表紙の裸婦は水彩とフロッタ ージュで描かれている。 「美しさと哀しみと」は同年に制作された松竹映画「美しさと 哀しみと」の中に登場する。原作はノーベル賞作家の川端康成 で、堕胎した女流画家とその弟子で画家への恋慕から画家の 元恋人に近づく若いレズビアンの女性がからむストーリーを 監督篠田正浩が映像化した。池田は主人公の女流画家を演じ る八千草薫に代わり畳3畳分の絵を描いた。その数年前から池 田と交際し、池田満寿夫の銅版画を高く評価していた篠田が 「地獄と怪物」の画家といわれるオランダのボッシュの絵の ようにと制作を依頼。上中下畳3畳分の絵のうち、真ん中部分 のみ残り、残りは行方不明である。 油絵が売れなかったため、講談社の絵本の挿絵なども手掛け るべく努力していたが 22歳のとき、画家・瑛九の助言で、 色彩銅版画を始めた。当時の日本では色彩銅版画を本格的に 手掛ける作家が少なく、何とか絵で生活したいと思ったため である。生活費を稼ぐため、エロティックな版画集も制作した。 銅版画のプレス機は当初は小学生が使うようなハガキの倍く らいのサイズしか刷れない機械を使用。公募展で賞をとるた びに賞金で大型のプレス機を購入し、版画作品もこれに伴っ てサイズが大きくなっていった。 版画の技法は、瑛九のエッチング講習会の助手をして基本的 なことを学んだが、自己流を通した。木版、銅版、シルクスク リーン、リトグラフなどが現存する。特に、ドライポイントに よる銅版画の評価が高い。 池田満寿夫の作品が広く評価されるようになったのは、2人の 外国人に銅版画のドライポイントを認められたことがきっか けである。第2回東京国際版画ビエンナーレ展と第3回展で、 それぞれ国際審査員のドイツ人美術評論家・ヴィル・グロー マンとニューヨーク近代美術館版画部長・ウィリアム・リーバ ーマンに評価され、入賞した。銅版に鋭い刃で傷を付ける、 池田満寿夫のドライポイントの線描は、パウル・クレーやデ・ クーニング、ヴォルスの線に似ているが、雪舟の水墨画『秋冬 景山水図』の線にも影響を受けている。日本人審査員は評価 しなかったが、グローマンは「ここには東洋がある。日本の 能面に通じる簡潔な美がある」と“東洋の影”を指摘して絶 賛した。このドライポイントを主軸にした版画がヴェネツィ ア・ビエンナーレ展版画部門で評価されたのである。 雪舟の水墨画の影響がうかがえる作品としては、第2回パリ青 年ビエンナーレ展版画部門優秀賞を受賞した「大きな女」や ドイツの古雑誌を使ったコラージュ「ムーン・フェイス」な どが挙げられる。 なお、エロティックな作品のモデルは生身の女性ではない。 裸体モデルを使ったことはほとんどなく、ファッション雑誌 やポルノ雑誌を利用して、イマジネーションを膨らませた。 雑誌の表紙画の女性も特定のモデルはいない。 版画の代表作は、銅版画やリトグラフなど内外での受賞作品 がまず挙げられる。池田自身が代表作125点を自選した「池田 満寿夫25年の歩み」(1981、アートよみうり)も出版されている。 池田満寿夫年譜 1934 旧満州奉天市に生まれる 1953 自由美術家協会展に入選 その後、画家・瑛九(えいきゅう)のすすめ で色彩銅版画をはじめる 1957 第1回東京国際版画ビエンナーレ展に入選 1960 東京国際版画ビエンナーレ展の国際審査員ヴィ ルグローマン博士の強力な推薦によって文部大 臣賞を受賞して一躍脚光をあびる 1961 はじめて銅版画の個展を上野・不忍画廊で開催 1962 第3回東京国際版画ビエンナーレ展で東京都知 事賞を受賞 1964 東京国際版画ビエンナーレ展の東京国立近代美 術館賞を受賞 国際審査員ウィリアム・S・リーバーマンに認め られる 1965 リーバーマンの勤めるニューヨーク近代美術館 で日本人初の個展開催 その間、パリ、サンパウロ、リュブリアナ、ク ラコウなどの国際版画展で受賞 1966 32歳で棟方志功に次いでヴェネツイア・ビエ ンナーレ展の国際版画大賞受賞 1967 芸術選奨を受賞 ニューヨークと東京にアトリエをかまえる 1977 小説「エーゲ海に捧ぐ」で芥川賞を受賞 全版画作品を展示する「池田満寿夫の20年全 版画展」を開催 1983 作陶をはじめ、陶芸の伝統に挑戦、大型のモニ ュメンタルな陶彫をてがける TVドラマの演出、TV番組の出演などによっ て、大衆の人気を集め「もっとも著名な文化人」 の一人となる 1997 3月8日急逝、享年63歳 受賞歴 第2回東京国際版画ビエンナーレ展文部大臣賞 「女・動物たち」「女の肖像」「女」 第2回パリ青年ビエンナーレ展版画部門優秀賞 「月の祭」「大きな女」「女王」 第3回東京国際版画ビエンナーレ展東京都知事賞 「動物の婚礼」「夢の鳥」「花嫁の領地」 第4回東京国際版画ビエンナーレ展国立近代美術館賞 「夏1」「私は何も食べたくない」「化粧する女」 第1回クラクフ国際版画ビエンナーレ展入賞 「楽園に死す」「姉妹たち」「天使のいる風景」 ヴェネツィア・ビエンナーレ展版画部門国際大賞 「動物の婚礼」「庭を横切る昆虫」「金曜日は雨」「戸口へ急ぐ 貴婦人たち」「天使の靴」「タエコの朝食」「サイズはサイズ」 「化粧する女」「聖なる手1」「青い衣裳」「海のスカート」 「ロマンチックな風景」「楽園に死す」「姉妹たち」「花園にて」 「天使のいる風景」「ヴォーグから来た女」「バラはバラ」 「シンデレラの広告」「Spring and Springs」「青い椅子」 「愛の瞬間」「Something1」「Something2」「ある種の関係」 「夏1」「夏2」「夏の夢」 大賞受賞作28点のうち、「バラはバラ」など10点は自分のアト リエではなく、旅先のニューヨークのホテルなどで制作した。 1965、ニューヨーク近代美術館での個展のため、観光気分で渡 米した際、池田はヴェネツィア・ビエンナーレ展の日本代表作 家に選ばれた。しかし、旧作とともに、新作10点の出品を求め られた池田は困惑した。池田は腐食に頼らない、ドライポイン トとルーレットで急きょ制作を進め、現地の工房を借りて刷 り上げた。旅先での不慣れな制作環境の中、チャンスを見事 に生かした。 米国と日本を拠点とした制作活動では、メゾチント技法を多 用する詩的な主題へ向かったが、突然に奔放なエロティシズ ムを打ち出し、転機となった。帰国後にドライポイントを再 び手掛ける。また宗達や琳派の空間構成を意識した大作リト グラフやコンピュータ・グラフィックスの原画をもとにした 版画を制作した。 第8回リュブリアナ国際版画ビエンナーレ展入賞 「靴の裏」」「ブダペストからの自画像」「マリリンの半分」 第3回クラクフ国際版画ビエンナーレ展入賞の「夢」 第17回アメリカ国内版画展入賞の「ファッション」 書 池田満寿夫の書は全くの我流である。1964には、読売新聞に 連載された小説家、子母沢寛の自伝的な読み物のカットに加 えて題字も引き受けていた。題字を書くようになった動機は 不明だが、1本の線を細く、また太く一気に書くこと自体、絵を 描くのと同じだと考えていたようだ。白石かずこの詩集本の 題字なども担当している。 池田は若いときからこの我流の書に自信を持っていた。晩年 になると、陶芸作品の箱書きとともに、頼まれて書を多く書 き始めた。 書と美術の関係について池田は「芸術家になる法、池田満寿夫 対談金田石城」(1997、現代書林)の中で、「日本が世界に影響を 与えたのは浮世絵と書の二つ。書は世界美術に対して影響を 与えている。非対象主義は全部書から来ている。20世紀の世 界美術に与えた書の影響力は本当に凄い。ミロも書の影響を 受けている。1本の線を均等に引くのが西欧の伝統、太くした り細くしたりするのは書の影響」としている。 文学 文学面での才能は芥川賞を受賞した小説『エーゲ海に捧ぐ』 で知られるが、20代から詩やエッセイを発表、美術評論も手 掛けるなどその文才は美術・文学関係者から注目を集めてい た。詩人の田村隆一は、池田満寿夫の文体はコラージュ的で あると批評している。 少年時代から文学に親しんだ池田は、無名時代には謄写版刷 りの私家版詩集や詩画集を発行した。『美の王国の入口で、 私のなかの世界美術』(1976、芸術生活社)では美術評論家顔 負けの独創的な美術論を展開。新聞・雑誌に多様なエッセイ を発表している。森茉莉、加藤郁乎、澁澤龍彦、吉行淳之介 、野坂昭如らの詩集、著作本の装丁もしている。 ベストセラーとなった「エーゲ海に捧ぐ」は42歳のとき、米国 滞在中に雑誌「野性時代」編集長の誘いで生まれた。「朝日ジャ ーナル」連載のエッセイが好評だったためで、個展開催のため 帰国した際、ホテルに5日間缶詰となって書き上げた。このと き池田満寿夫は実際にはエーゲ海を訪れたことはなかった。 1976、野性時代新人文学賞を受賞。翌年、芥川賞を受賞した。画 家が受賞したのは初めてで、池田満寿夫は“時代の寵児”に なった。 芥川賞の選考委員会は3時間を超す異例の選考となり、吉行淳 之介が池田満寿夫を強く推薦し、永井龍男は結果を不満とし、 前回の村上龍と併せて芥川賞への不満を表明して選考委員を 辞任した。 このほかの小説は「ミルク色のオレンジ」(1976)、「テーブルの 下の婚礼」(1977)など、多数の著作がある。 映画・テレビ 1978の映画「エーゲ海に捧ぐ」は、同名の芥川賞受賞小説とは 内容が異なる。ローマなどでロケし、イタリア女優が出演した 官能的な全裸シーンがあり、話題を呼んだ。興行収入は16億円 に上る。2作目の映画「窓からローマが見える」は興行的には失 敗した。脚本・演出を手掛けたり、テレビドラマで、佐藤陽子 とともに出演。クイズ番組にも登場し、お茶の間の人気を博 した。1992には、ボードゲームであるオセロ(ツクダオリジナ ル販売)のCMにも佐藤とともに共演した。 なお、映画「エーゲ海に捧ぐ」の主題歌が、ジュディ・オングが 歌って日本レコード大賞を受賞した「魅せられて」とする誤解 がしばしば見られるが、同じ年に発売された「魅せられて」 は女性下着メーカー・ワコールのCMソングだった。ただ、楽曲 は元々池田満寿夫と意気投合した酒井政利がエーゲ海に捧ぐ のCMソングとして考えたもので、ワコールのCMには同映画の 主演女優が出演しており、一種のタイアップのような形にな っていた。 造形 池田満寿夫は絵画以外に立体の仕事も精力的に手掛けている。 なかでも晩年の陶芸作品、般若心経シリーズの作品群につい ては版画を超えるとの評価をする人が多い。なお、これら陶 芸作品について、オブジェや陶彫だとする人もいる。 中学時代の池田は平安時代の仏像彫刻と考古学に熱中。古紙 屋から戦前の教科書を探し出し、仏像や寺院の写真をスクラ ップするほどだった。池田は東京藝術大学を3回受験したが、 うち2回は彫刻科だった。版画家として活動しているときでも 、立体の仕事をしたいと思い続け、彫刻のためのデッサンや オブジェのイメージを密かに育てていた。陶芸より彫刻、テラ コッタの方に関心の重点を置いていた。 池田満寿夫が49歳のとき、陶芸を始めたのはその意味で偶然 ではない。それ以前は彫刻の素材として何がいいのかを考え ているうち、時間が過ぎていたのだ。米国滞在中には実際には 使用しなかったが、アトリエに電気窯を備え付けている。そん な立体に興味を抱いている最中の1983、誘われて静岡県南伊 豆町の日本クラフトの岩殿寺窯でロクロを回した。 陶芸の世界に一気にはまった。感性の趣くままに芸術活動を する池田満寿夫は、その表現の手段にこだわりをみせていな い。版画でも様々な技法に挑戦し、年代によって作風が変化 している。池田満寿夫は自分のイメージを表現できる造形手 段として陶芸が一番であると思った。池田満寿夫は陶芸につ いて「なんといってもインスピレーションと成り行きだけで どんどん形を作っていけるシステムが私を興奮させた」(1992 年8月24日付読売新聞夕刊)とその魅力を語っている。 陶芸を始めてから西洋美術史一辺倒の池田満寿夫の芸術思考 に変化が起きた。西欧の絵画と彫刻に目を向けていた池田満 寿夫は、日本の縄文土器や弥生土器、楽茶碗、織部に改めて 関心を抱き始めた。俵屋宗達や尾形光琳の影響を受け、版画 でも金色、銀色を使い出した。 池田満寿夫の陶の制作方法は、当初は若手陶芸家をアシスタ ントに雇ってロクロで壺や徳利、皿などを成形するよう指示。 これらをゆがめたり、つぶしたり、組み合わせたりして完成 させた。窯はガス窯、電気窯を使用していた。 作風が大きく変化するのは、1993山梨県増穂町(現富士川町)、 増穂登り窯(太田治孝主宰)内に野焼き風の焼成が可能な薪窯 の「満寿夫八方窯」を造ってからである。耐火度が強い土を 使い、高さ1mクラスの大型作品は板状の粘土を使ってタタラ 作りの技法や手びねりで制作した。 代表作は「般若心経」シリーズ(パラミタミュージアム蔵)と 「古代幻視」シリーズ(池田満寿夫記念館展示)の作品群である。 池田満寿夫美術館(長野市松代町)の開館に合わせて制作した 「土の迷宮」シリーズの作品群や富士山の様々な景色を描い た陶板画もある。 池田満寿夫の陶の作品群の中で最高傑作に数えられる般若心 経シリーズの作品は、2年がかりで般若心経を立体的に造形化 した。高さ約1.5mもの大佛塔6体、佛塔24体、地蔵42体、心経碑 34点、心経碗276点、心経陶板54点、佛画陶板30点、心経陶片828 点と膨大な数だ。仏の顔はなぜかガンダーラ仏に似ており、 エロスの作家といわれた池田満寿夫の版画とは全然異なる宗 教的な風情を醸し出す。佛画陶板はドライポイントの技法を 援用して陶板表面が半乾きのとき、クギでひっかいて彫った。 このパラミタミュージアムは、ジャスコ、イオングループを事 実上創業した岡田卓也の実姉、小嶋千鶴子が私費で建設した。 池田満寿夫の死後、「池田満寿夫の造形 般若心経」(1995、同朋 舎出版)を偶然見た小嶋が感動して「般若心経」シリーズの作 品群を購入、展示施設を造った後、岡田文化財団に寄贈した。 池田満寿夫は米国陶芸界の第一人者ピーター・ヴォーコスと 30年近く交流を続けた。ヴォーコスは陶芸家兼彫刻家であり 、絵画、コラージュ、版画にも手を染めるなど池田と同様、 マルチアーティストだった。ロクロで壺などを引いて積み上 げた後、ハンマーなどで作品を打ってゆがませる手法でも知 られる。前衛的で、荒々しい、用の美を備えない作品は、日本 の日本の陶芸界、特に若手陶芸作家に衝撃を与えた。池田は ニューヨーク近代美術館での個展開催のため、1965、富岡多恵 子と初訪米した際、ヴォーコスに会い、その後も交際していた のだ。池田満寿夫は陶芸を始める直前、ヴォーコスの作品を 購入している。ヴォーコスとの出会いは池田満寿夫の芸術活 動に多大な影響を及ぼした。 一方、彫刻については、陶の作品制作を始めた後にブロンズ 制作を手掛けた。野外に置かれる巨大なモニュメントも制作 した。長野市のブロンズ製「アポロンの水瓶」(1989)、兵庫県西 宮市、ブロンズ「静と動」「天馬」「ラ・メール」(1991)どである。 第2回フジサンケイ・ビエンナーレ現代国際彫刻展には"新人 彫刻家"として応募、ブロンズ「犀」(1995)(美ヶ原高原美術館) が優秀賞を受賞した。 |