小磯良平(1903-1988)の8人兄弟姉妹の次男として、神戸市神戸(現在の中 央区)の中山手通に生まれた。 兵庫県立第二神戸中学校(現在の兵庫県立兵庫高等 学校)では竹中郁と同級で、生涯の親友だった。 東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)西洋 画科に進み、猪熊弦一郎・岡田謙三・荻須高徳らの 同級生と画架を並べる。 在学中の1925、に親戚の小磯吉人の養子となり改姓 し、同年「兄妹」が帝展入選 1926「T嬢の像」が帝展特選を果たす。 首席で卒業後の1928、フランスに留学。 ルーブル美術館のパオロ・ヴェロネーゼ「カナの婚 礼」に衝撃を受け、群像表現を極めることを生涯の テーマとする。 帰国後の1936「新制作派協会」(現新制作協会)の結成 に加わる。 1938から1年間藤田嗣治らとともに陸軍省嘱託の身分 で従軍画家として中国に渡り、帰国後戦争画を製作し た。 1941に群像画の傑作「娘子関を征く」と「斉唱」(第4回 新文展に出品)を相次いで発表する。 良平自身は群像を書くため精力的に戦争画に取り組ん だが戦後は画集に収録しなかった。 戦意高揚のために戦争画を書いてしまったことに心が 痛むと晩年に語っている。 戦後は東京藝術大学教授などを務めて後進の指導にあ たり定年退官後も迎賓館(赤坂)大広間の壁画「絵画」 「音楽」を制作するなど長きにわたり日本の洋画界に 大きく貢献し、同大学名誉教授の号を授与された。 1992に創設された「小磯良平大賞展」は国内最高賞金 の公募展として知られている。 1933神戸でキリスト教(組合教会系)の洗礼を受けて おり、1970には日本聖書協会の依頼により32点の聖書 の挿絵を完成させた。 1941出版の『東京八景』(太宰治)の装丁や1947年に制 定された「兵庫県民歌」楽譜の表紙画を手がけている。 1988年12月16日、肺炎のため神戸市東灘区の甲南病院で 死去した。享年85歳。 戦争画への想い かねて生前に良平が戦意高揚のために戦争画を書いてしま ったことが心が痛むと述べていたことは知られていたが、 史料としては残っていなかった。 しかし2007年8月15日にそのことを示す文書が発見された と神戸市立小磯記念美術館が発表した。 いずれも洋画家内田巌に宛てた手紙で封書が35通、はがき が3通発見され、そのうちの1つに戦争画に対する言及がさ れていた。 同博物館によれば良平の次女が自宅で発見し、それを同博 物館へ8月8日に寄贈したものとしている。 これらの手紙は同博物館において同年9月15日から11月18 日までの間、開館15周年特別展「藤島武二と小磯良平展― 洋画アカデミズムを担った師弟―」で公開された。 李王家コレクション 1935年作の「日本髪の娘」は同年に東京で開催された展覧会 に出品されて以来長い間行方不明となっていた。 所有していた韓国の韓国国立中央博物館が2005年に公開し たが、当時はそれが所在が不明とされていた作品であると 認識されず、2008年11月になってようやく幻の作品が発見 されたと報じられた。 11月18日から翌年の2009年10月まで同館で開催される「日 本近代西洋画展」にて公開された。 同作品は朝鮮王朝の李王家が1937に購入していた。 小磯良平年譜 1903 7月25日神戸に貿易商の次男として生まれる 1922 東京美術学校入学 1923 藤島武二教室に入る 1925 帝国美術院第6回美術展覧会(帝展)に「兄妹」が 初入選 1926 在学中帝展に「T嬢の像」出品、特選となる 1927 東京美術学校首席で卒業 卒業制作は「彼の休息」「自画像」 1928 渡仏 1932 神戸にて初個展 「裁縫女」が第13回帝展で特選 1936 新制作派協会を結成 1942 「娘子関を征く」が第1回芸術院賞受賞 1943 東京美術学校非常勤講師となる 1950 東京芸術大学油画科講師就任 1953 東京芸術大学教授に就任 1971 東京芸術大学を退官、名誉教授となる 1973 赤坂迎賓館の壁画「絵画」「音楽」着手 (翌年3月完成) 勲三等旭日中綬章受賞 1979 文化功労者となる 1982 日本芸術院会員に推挙 1983 文化勲章受章 「画業60年 小磯良平のすべて展」開催 1988 逝去 享年85歳 1998 「没後10年 小磯良平展」開催 (神戸市立小磯記念美術館、兵庫県立近代美術館) 代表作品 「T嬢の像」(1926、兵庫県立美術館蔵) 「彼の休息」(1927、東京藝術大学大学美術館蔵) 「日本髪の娘」(1935、韓国国立中央博物館蔵) 「着物の女」(1936、神戸市立小磯記念美術館蔵) 「練習場の踊り子達」(1938、東京国立近代美術館蔵) 「斉唱」(1941、兵庫県立美術館蔵) 「二人の少女」(1946、神戸市立博物館蔵) 「働く人びと」(1953、三井住友銀行蔵) 「婦人像」(1960、神戸市立小磯記念美術館蔵) -元宝塚歌劇団の八千草薫がモデルを務めた作品 「絵画」(1974、赤坂迎賓館蔵、大ホールにて展示) 「音楽」(1974、赤坂迎賓館蔵、大ホールにて展示) 「KOBE, THE AMERICAN HARBOUR」(1985、兵庫県公館) 戦争記録画について 戦後、下記の戦争画についてはGHQに軍国主義的である と判断されて没収。 1970アメリカ合衆国から無期限貸与の形で返還され、 いずれも東京国立近代美術館に収蔵されている 『娘子関を征く』(1941) 『カリジャティ会見図』(1942) 『ビルマ独立式典図』(1944) 『日緬条約調印図』(1944) 『カンパル攻略(倉田中尉の奮戦)』(1944) 個人美術館 兵庫県立美術館 小磯良平記念室 神戸市立小磯記念美術館 受賞歴 1939 朝日文化賞受賞 1942 第1回 帝国芸術院賞受賞(「娘子関を征く」) 1979 文化功労者 1982 日本芸術院会員 1983 文化勲章受章 1983 神戸市名誉市民 文化勲章受章者、日本芸術院会員、東京芸術大学名誉 教授の小磯良平は、12月16日肺炎のため神戸市東灘区 の甲南病院で死去した。享年85歳。 戦前戦後を通じ、清潔、典雅で気品ある婦人像を描き 続け、独自の写実の世界を拓いた小磯は、1903年7月25 日神戸市に貿易商岸上文吉の次男として生まれた。 1925年小磯吉人の養子となり小磯姓を名のる。 兵庫県立第二中学校在学中から上級の田中忠雄らと交 わり油彩画や水彩画に親しんだ。 詩人の竹中郁も同級の友人であった。 1922年東京美術学校西洋画科に入学、同期に荻須高徳 牛島憲之、山口長男らの俊秀が揃い、翌年から藤島武二 教室に学んだ。 在学中の同1924第6回帝展に「兄弟」が初入選、翌年 の第7回帝展では「T嬢の像」で特選を受けるなど早く から画才を発揮し、昭和2年西洋画科を首席で卒業した。 卒業制作は中学の同級竹中をモデルにした「彼の休息」 であった。 卒業の年、同期生らと上杜会を結成、第1回展に「裸婦 習作」等を発表した。 1928年から同5年の間渡仏し、パリでグランド・ショ ミエールへ通った。 この間、山口、荻須、中村研一らと交友、ヨーロッパ各 地をしきりに旅行し、制作より美術作品の見学に多く 時間を費した。 作家では、ドガの作品に啓示を受けたのをはじめ、ロー トレック、セザンヌ、マティス、ドランに関心を示し た他、古典にも多くを学んだ。 1929、サロン・ドートンヌに「肩掛けの女」が入選。 1930、帰国後、全関西洋画展に滞欧作を特別出品、第 11回帝展に「耳飾」を発表、また光風会会員に迎えら れた。 1932、第13回帝展に「裁縫女」で特選を受け、1934に は帝展無鑑査となったが、1935の帝展改組に際しては これに反対する第二部会に所属し、1936新文展発足と ともに光風会、官展を離れて、同年猪熊弦一郎、脇田和 らと新制作派協会(のち新制作協会)を創立、第1回展に 「化粧」などを発表した。 1938陸軍報道部の依嘱により中村研一らと上海へ赴き 、その後も中国、ジャワなどに従軍し戦争画を描いた。 1940、前年作の「南京中華門の戦闘」で第11回朝日賞 を受賞、1942には前年作「娘子関を征く」で第1回芸 術院賞を受けた。 1945年6月5日の神戸空襲でアトリエを失い、以後再 三の転居を余儀なくされたが、1949現在の神戸市東灘 区住吉山手7-1に住居とアトリエを新築した。 戦後は、1950東京芸術大学講師、1953同教授となる。 1954神奈川県逗子市新宿4-1696にアトリエを構えた。 制作発表は新制作展の他、日本国際美術展、現代日本 美術展へもそれぞれ第1回展から出品し、1958第5回 現代日本美術展に「家族」で大衆賞を受賞した。 また、東京芸術大学版画教室の新設にも尽力し、1964 には自ら銅版画展を開催した。1971東京芸術大学を 退官、同大学名誉教授の称号を受け、1972住居を神戸 市に移した。 1973愛知県立芸術大学客員教授となる。 同年、赤坂迎賓館の壁画制作を依嘱され、「絵画」「音楽」 を主題に制作着手し翌年完成を見た。 1979文化功労者に選任され、同57年日本芸術院会員 となる。 1983文化勲章を受章した。的確な線描と知的な構成、 清澄な色調と静謐典雅な作風を打ち立て、洋画壇で最 も人気を集めた作家でもあった。 戦前から石川達三、舟橋聖一らの新聞小説挿絵を手が け、戦後も山崎豊子『女の勲章』などの挿絵を描いた。 国立国際美術館評議員をつとめ、神戸市名誉市民でも あった。 1988兵庫県立近代美術館に「小磯良平記念室」がオ ープンした。 存命中の画業展としては、1987兵庫県立近代美術館他 で開催した「小磯良平展」が最も新しく、かつ内容の 充実した展観としてあげられる。 葬儀は、12月19日神戸市の日本基督教団神戸教会で 執行された。 |