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中村正義(1924−1977)

戦後の日本画壇において異端的な作品を数々発表し、
「日本画壇の風雲児」と呼ばれた。
子供のころから病弱で、美術学校に行くこともできな
かったが、日本画壇の重鎮・中村岳陵の画塾に入門し、
22歳で日展に初入選。たちまち頭角をあらわす。
速水御舟の再来とも言われ将来を嘱望されたが、その
後モディリアーニやデュビュッフェ、さらにポップア
ートなどを自分流に咀嚼した破天荒な画風に転じ、日
展を脱退、師の元も離れる。日本画壇から激しいバッ
シングを受け、外の世界に仕事を求めた結果、映画用
の注文作品や、雑誌の表紙や、リアリズム風の絵も手
がけた。

1977年4月16日、呼吸不全のため神奈川県川崎市の
聖マリアンナ医科大学病院にて死去。享年52歳
死後、遺族(娘の中村倫子)が家を美術館として公開
している

中村正義年譜

1924 愛知県豊橋市に生まれる

  1940 病身にため豊橋市立商業学校を中退

1946 中村岳陵に師事、日展初入選

1950 第6回日展に「谿泉」(豊橋市美術博物館蔵)を出品
   特選となる

1952 「女人」で特選を受賞するが肺結核のため1957
   まで制作活動を中断する

1960 第3回新日展の審査員となる

1961 川崎市細山に転居
   蒼野社をやめ日展を脱退する

1963 個展「男と女」を開催(上野松坂屋・名古屋丸栄)
   従来の画風を脱した野心作30 点を発表する

1964 映画[怪談](小林正樹監督) の為[源平海戦絵巻]
   5部作(国立近代美術館蔵)制作

1966 個展「顔の自伝」(日本画廊)開催

1967 直腸癌の手術を受ける

1969 個展「太陽と月のシリーズ」 (銀座三越)開催

1970 写楽研究の成果「写楽」(ノーベル書房)を出版
   東京造形大学の日本画講師となる

1974 人人会を結成
   第1回人人展(日本橋三越)開催

1975 東京展市民会議を創設、事務局長として奔走
   第一回東京展(都美術館)開催

1977 4月16日肺癌のため死去 享52才

1980 NHK日曜美術館「私と中村正義」放映
   「異端の天才画家 中村正義」展開催
   (豊橋市美術博物館)
   『中村正義画集』(講談社)刊行

1983 「反骨・奔走の偉材 中村正義」展開催
   (神奈川県立近代美術館)

1988 川崎市の自宅を美術館としてオープン

1993 NHK日曜美術館「現代日本画の出発中村正義」放映

1997 「没後20年-中村正義」展開催
   (豊橋市美術博物館、川崎市市民ミュージアム、新潟美術館)

1998 中村正義美術館10周年記念として[創造は醜なり]刊行
   (中村正義著/美術出版社)

1999 NHK新日曜美術館「拝啓中村正義さま」放映

2005 TV東京 美の巨人たち「100枚の自画像」放映

2011 所在不明になっていた作品も含めた「中村正義展」
   (名古屋市美術館)開催
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