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増田誠(1920-1989)

山梨県南都留郡谷村町下谷(現都留市谷村町下谷に生ま
れる。父は理容店を営む清治郎で、誠は次男母はかね。
幼い頃より絵が得意で、中学時代には似顔絵の天才と賞
されたという。

1931、父の清治郎が死去。谷村尋常高等小学校、山梨県立
都留中学校(現山梨県立都留高等学校)を経て、山梨師
範学校(現山梨大学)を卒業。1938には吉田尋常高等小
学校の教員となり、富士上吉田町(現富士吉田市上吉田)
の西念寺の離れに下宿する。翌1939、には退職し、同年
11月には国華工業へ就職する。

1941には徴兵され陸軍東部12部隊へ入隊し、同年4月に
は幹部候補生として南支へ派遣される。近衛野砲連隊南
支に配属され、同年7月にはプノンペンに駐屯する。同年
10月には甲種幹部候補生として千葉県四街道陸軍野戦砲
兵学校幹部候補隊に入校する。1942には陸軍砲兵見習仕
官としてシンガポール駐屯の原隊に復帰し、同年7月には
北部軍宗谷要塞に転属する。同年12月には少尉に任官。
翌1943には北海道道東地区警備のため釧路に派遣され、
同年10月には宗谷要塞地区に復帰する。同年12月には
中尉に任官する。
翌1944には横須賀陸軍重砲兵学校に入学する。翌1945
には北部軍稔部隊に観測係将校として転出し、九州南方
警備にあたり、鹿児島で終戦を迎える。

戦後は同年10月に結婚し、北海道上川郡清水町へ渡り
一年ほど農業を営む。1950には妻の故郷である釧路市
栄町で光工芸社を設立し、看板業を営む傍ら画業を行
う。
光工芸社近くに宿泊していた一線美術の画家上野山清
貢から影響を受ける。

1952、には第二回一線美術展に出展し、会友となる。
1955、には清貢から世界一周旅行への同行を勧められ
パリ遊学を企図するが、清貢の病のため断念する。
翌1956、には光工芸社を売却して上京し、西荻窪に下
宿して渡仏準備を行う。翌1957には渡仏を果たし、
パリ国際大学都市日本館に滞在する。

翌1958にはサロン・デ・ザンデパンダンに出展する。
同年には彫刻家であるザボのアトリエに転居し、その
後モンパルナスのホテル・リベリアに滞在する。
1963にはサロン・ドートンヌの会員となる。「増田誠
画集」によれば、同年3月には「新聞売り」がサロン・ナ
ショナル・デ・ボザールに出展されたという。
「新聞売り」は横一列に人物が描かれた作品であるが、
展覧会のカタログには増田の出展作は「Cirque」で、
町並みの風景が描かれた作品の写真が掲載されて
いる。また、1965の「造形 65号」には1963のサロン
ナショナル・デ・ボザールに出展されたという運河を
描いた作品を背景に増田が写った写真が掲載されて
いる。このため、「新聞売り」が同展に出展された点
には異議が存在する。1965にはル・サロン・デ・ザル
ティスト・フランセで金賞を受賞し、パリの画壇で認
められる存在となる。

1970年代にはギリシャ神話や「旧約聖書」など西洋の
宗教・神話的なテーマに取り組んだ作品を多く発表
している。
増田誠は1980のインタビューにおいて、西洋的なテ
ーマに取り組むきっかけとなったのは1975のル・サ
ロンに出展したときであると述懐している。

増田誠の証言がある一方で、実際に1975のル・サロン
に出展されたのは「キヨスク(キャリテ・ド・ラ・ヴィ
ー」であることが指摘され、なおかつこれに先行する
1974には「トロイの木馬」、1975のサロン・ナショナ
ル・デ・ボザールに「アルゴナウト」が出展されている
事実がある。このことから、実際には1980以前から
既に西洋のテーマには取り組んでいたと考えられて
いる。

1979にはサロン・ドートンヌに「ソルフェリーノの
アンリ・デュナン」を発表する。これは増田誠が東郷
青児の「ソルフェリーニの掲示」に触発され、赤十字
の創設者であるアンリ・デュナンに取材した作品で
ある。画面左には聖母マリアが十字架から下ろされ
たキリストを抱く「ピエタ」を描き入れ、前景には
兵士が折り重なり倒れる様子を描き、ウジェーヌ・
ドラクロワの「民衆を導く自由の女神」を思わせる描
写であることが指摘される。

増田誠は1967の「シオの虐殺」においてもドラクロワ
の「キオス島の虐殺」の前景を取り入れており、1975
「ルーブル」では画中画としてドラクロワの「サルダ
ナパールの死」を大きく描いている。方ともルーブル
美術館に所蔵されていることから増田誠は実見して
いたと考えられている。

1988に帰国すると、各地で個展を開催し、テレビ出演
や北海道新聞釧路版の連載執筆も手掛ける。1989に
は大分県由布院を旅行し、2月には北海道の阿寒湖を
取材している。
3月には横浜赤十字病院に入院し、4月9日に肺炎のた
め死去。享年78。葬儀は同月12日に故郷都留市下谷
一丁目の深泉院で行われ、深泉院に埋葬された。

増田誠は港や河岸の風景、パリの市井の人々の生活
などを多く描いた。渡仏初期には当時の流行を反映
してアンフォルメルを意識した作品を手がけている。
特にパリの石畳の風景を画題として選び、佐伯祐三
や荻須高徳と比較された。1970年代から80年代にか
けてはギリシャ神話や旧約聖書を題材とした大作を
手がけ、キャンバスを複数枚つないだ大型の作品も
手がけている。故郷山梨では富士山を描いた作品も
見られる。

多作な画家として知られ、油彩、版画、エッチング
、リトグラフ、墨彩画など1600点以上がヨーロッパ
や日本に所在しており、個人の所蔵家の手元に残っ
ている作品も多く、その全容は未だ明らかにされて
いない。また、増田の思想や芸術観、フランス画壇
における評価など指摘検証も十分になされていない。

日本では1970〜1988の第十五回展まで小田急百貨
店で個展を開催する。
1991には故郷の都留市中央に増田誠美術館が開館
する。2012には山梨県立美術館で「増田誠 パリ-
人生の哀歓」が開催された。2015には増田誠美術館が
都留市上谷のミュージアム都留に移転統合された。
増田誠年譜

1920 5月24日谷村町に生まれる
   (現都留市つる一丁目)

1933 谷村尋常高等小学校卒業
   県立都留中学入学し、中島由多禾教諭に指
   導を受ける

1938 県立都留中学校卒業
   吉田尋常高等小学校に美術の代用教員とし
   て奉職

1939 吉田尋常高等小学校を退職

1950 釧路市に光工芸社を設立
   帝展画家上野山清貢に師事

1952 一線美術展に出品、会友となる

1957 単身渡仏、7月28日パリ着

1958 サロン・デ・アンデパンダンに出品
   以降毎出品

1960 ポントワーズ市展に招待出品
   ポントワーズ芸術会員となる
   シェルブール国際展に招待出品グランプ
   リ受賞

1961 モナコ国際展に招待出品、ボジオ賞受賞

1962 サロン・ナショナル・デ・ボザールに出品
   パリ市近代美術館の会員に推挙される

1963 サロン・ドートンヌ出品
   会員に推挙される

1964 ジェビシー市国際展に出品名誉賞受賞

1965 サロン・ナショナル・デボザールに出品
   会員に推挙
   ル・サロン・デ・アーチスト・フランぜー
   ズに出品、金賞受賞
   ル・サロン無鑑査となる

1970 小田急百貨店にて第1回個展
   (以降15回開催)
   「20周年記念」一線美術館出品
   グランプリ受賞

1976 「在パリ20周年記念展」第7回個展
   (小田急百貨店)

1987 「増田誠絵画展」開催(都留市)

1989 「郷土を描く、増田誠特別展」開催
   (都留文化会館)
    4月9日肺炎のため死去

    都留市名誉市民第1号の称号を受ける
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