ホーム > 日本洋画作家 > 三岸節子 |
|
|
| |||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
ご購入の手引 |
格安卸価格は送料込み、消費税別の価格です。 作品の到着後8日間以内のご返品は自由です。 お客様の都合による返送料はお客様負担となります |
三岸節子愛知県中島郡起町(現一宮市小信中島)の織物工場を営む裕福な家の十人兄弟の6番目(4女)に生まれた。 父は吉田永三郎、母は菊。母の菊は、安政の大獄で死 罪となった水戸藩士・鵜飼吉左衛門(幼名は菊三郎) の一族であった(節子生家近くの頓聴寺住職も鵜飼 家の人物であった)。しかし、吉田家は不況のあお りで倒産した。先天性股関節脱臼(現・発育性股関 節形成不全)を患っており、両親に抑圧されて育っ た節子も、この大きなショックから当時興味を抱い ていた絵の道へと向かっていく。戦前・戦後の画壇 における女性画家の地位向上に努め、その生涯を通 じてたくましい精神力で生命を賛歌する作品を描き 続けた。 名古屋市の淑徳高等女学校(現愛知淑徳高等学校) 卒業後、日本画をすすめる両親を説得したうえで洋 画を学ぶために上京し、本郷洋画研究所で岡田三郎 助に師事する。女子美術学校(現女子美術大学)の 2年次に編入学し、首席で卒業した。1924に三岸好太 郎と結婚し、1930に長男黄太郎を出産するも、1934 に夫と死別した。生活は苦しかったが、太平洋戦争 中も疎開せず、明るい色調の静物画を多数描いた。 1946、女流画家協会を創立する。1948から菅野圭介 と事実上の婚約関係にあったが、1953に破局した。 1954黄太郎が留学していたフランスに渡り、1968に は南フランスのカーニュに、1974にはブルゴーニュ 地方の農村ヴェロンに定住した。黄太郎とともにヨ ーロッパの各地を巡って風景画の傑作を生み出し、 言葉の通じない異国での孤独感や老化による体の衰 えと闘いながら絵を描き続けた。1989に帰国した時 、節子は84歳になっていた。以後は神奈川県中郡大 磯町の自宅兼アトリエにて制作を続けた。 1905 起町(現在の尾西市)に生まれる 1921 淑徳高等女学校を卒業 上京して洋画家・岡田三郎助に師事 1922 女子美術学校2学年に編入(現女子美術大学) 三岸好太郎と出会う 1924 女子美術学校を首席で卒業 9月三岸好太郎と結婚 1925 春陽会第3回展に初出品、初入選 婦人洋画協会結成参加 1932 参加していた春陽会離脱 独立美術協会第2回展に出品、入選 1934 夫・好太郎死去(享年31) 1936 長谷川春子ら女性画家7人で七彩会を結成 1939 新制作派協会会員となる 1945 戦後初の個展開催(銀座・日動画廊 1947 女流画家協会の創立に発起人として参加 1948 洋画家・菅野圭介と別居のかたちをとり再婚 1951 昭和25年度芸能(現芸術)選奨文部大臣賞受賞 1953 菅野圭介との結婚を解消 1954 初めて渡仏し、翌年帰国 1957 軽井沢の山荘で独居生活 1964 現在の神奈川県大磯に転居 1967 収集した好太郎の遺作220点を北海道に寄贈 1968 再び渡仏し、南仏カーニュに住む 1969 女流美術家による総合展「潮」の結成に参加 1974 ブルゴーニュの小さな農村ヴェロンに移住 1977 ヒマラヤ美術館が開館三岸節子作品室が設置 (名古屋) 1983 北海道立三岸好太郎美術館が寄贈作品を基に 開館 1986 勲三等宝冠章受章 1988 尾西市名誉市民推挙 1989 帰国、神奈川県大磯に定住 1990 朝日賞受賞 1991 三岸節子展<画業65年>開催 (米・ワシントン女性芸術美術館) 1994 女性洋画家として初の文化功労者表彰 1998 尾西市三岸節子記念美術館が生家跡地に開館 1999 4月18日急性循環不全のため、大磯の病院逝去 享年94歳 |