ホーム > 日本洋画作家 > 荻須高徳 |
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荻須高徳パリ在住の洋画家荻須高徳は、1986年10月14日午前2時 (日本時間同10時)パリ市18区の自宅近くのアトリエで制 作中死去した。 享年84歳。戦前・戦後を通じ半世紀以上フランスに滞在 し、パリの古い街並などを描き続け、フランスで最もよく 知られた日本人画家の一人であった荻須高徳は、1922年東 京美術学校西洋画科に入学した。 同期に小磯良平、牛島憲之、猪熊弦一郎、山口長男、岡田謙三 らがいた。 卒業の年の1927年、フランスから帰国中の佐伯祐三を山口 長男と訪ね、佐伯に鼓舞されてフランス留学を決意し、同年 山口とともに渡仏した。 荻須高徳は「フランスに来て一番驚いたのは石だ。家が私 にまるで生きているかのように話しかけてくる」と、初め て見る石造りのパリ街区に感嘆し、古い建物や裏通りを題 材にして、創作活動に取り組みました。 初期の頃は佐伯祐三の影響を強く受け、若さと勢いに溢れ た荒々しく力強いタッチの 画風 が特徴で、サインは細い 独特の文字で「OGUISS」と描かれています。 佐伯の没後は、ルーヴル美術館の絵画や、ルオー、ヴラマ ンク、ユトリロなど同時代の画家の作品から刺激を受け、 本場の油絵を貪欲に吸収します。 そのなかでもユトリロの作品に強く惹かれ、穏やかな画風 に変化し、荻須独自の画風を築きました。 翌1928年からはサロン・ドートンヌ、サロン・デ・ザルテ ィスト・アンデパンダンに出品を続ける。 1930年パリのル・ステュディオ画廊にて初めての個展を開 催する。 この頃から、作風も佐伯と見分けのつかないようなものから 落ち着いた色調、静寂さを備えたものへと変化し、造形性に 富んだ構成でパリの 風景画 を描くようになる。 1936年サロン・ドートンヌ会員に推挙され、「プラス・サン タンドレ」がフランス政府買い上げとなり、1940年のサロン ・ドートンヌ出品作「街角」はパリ市買い上げとなるなど、 フランスでの地位を確立したかに見えたが、1940年戦況悪化 のため一時帰国を余儀なくされる。 帰国後、新制作派協会会員に迎えられ、第5回同協会展に滞欧 作が特別陳列された。 1942年には陸軍省嘱託として仏領インドシナ等に派遣される 終戦後の1948年にはフランス入国を許可され再び渡仏し、以 後死去するまでフランスで制作活動を行いました。 戦後荻須高徳の作品には人物が描かれなくなりました。 後年荻須高徳は「何時間か描いているうちに、対象の壁だとか 窓だとか、通りの具合だとかそれだけが僕との対象になっちゃ うんです。だから通っている人間そのものは、存在がなくなっ ちゃうんです。僕の頭に」と語っていた。 1951年サロン・ド・メに招待出品したのをはじめ、サロン・ド ・テュイルリやヨーロッパ各地での個展で制作発表を行う。 パリの街角を独自の明快で骨太な筆触で描き続けた作品は、広 くパリ市民にも愛された また、日仏の文化交流にも尽力し、1954年に日本で第5回毎日 美術賞特別賞を受賞、955年に神奈川県立近代美術館、翌年ブ リヂストン美術館でそれぞれ回顧展が開催されました。 1956年フランス政府からシュヴァリエ・ド・レジオン・ドヌール 勲章を受章する。 1962年には国際形象派結成に同人として参加した。 また、1965年、17年ぶりに一時帰国した。 1974年パリ市からメダイユ・ド・ヴェルメイユを受賞した。 1979年、パリ市主催でパリ在住50年記念回顧展が開催される。 また、松方コレクションの日本返還やゴッホ展日本開催に協力 するなど、日仏文化交流にも尽した。 1980年東京新聞紙上に連載したパリ生活の回想をもとに『私の パリ、パリの私』を刊行、中日文化賞を受けた。 1981年、文化功労者に選任され、文化功労者に選定されたのを うけて、10年ぶりに日本に帰国しました。 1982年フランス国立造幣局は荻須の肖像を浮き彫りにしたメダ イユを発行し、後に同国大統領となる当時のシラク・パリ市長は 「最もフランス的な日本人」と彼を評しました。 1983年、郷里の稲沢市に稲沢市荻須記念美術館が開館した。 葬儀は10月17日モンマルトル墓地で執行され、画家のジャン・ カルズー、アイスビリー、カシニョル、ワイスバッシュ、シャ プランミディをはじめ、本野盛幸駐仏大使ら在パリ日本人会な ど三百人余が参列した。 死の一週間前ほど前に文化勲章受章が内定していたため、11月 3日には死去日に遡って同章が追贈された。 墓はパリのモンマルトル墓地にある。 荻須高徳年譜 1901 11月30日愛知県中島郡(現稲沢市)に生まれる 1908 千代田尋常高等小学校入学 1916 愛知県立第三中学校(現津島高等学校)入学 1921 上京し川端画学校に学び、藤島武二に師事 1922 東京美術学校西洋画科入学 1927 東京美術学校卒業 渡仏 1928 佐伯祐三らとモラン写生旅行を行う この頃からサインは細い独特の文字で「OGUISS」 と描くようになる モンパルナスのアトリエに居を定める 初めてのサロン・ドートンヌに2点を出品 サロン・ドートンヌに初入選 1930 パリのル・ステュディオ画廊にて初個展を開催 1931 サロン・デ・チュイルリーに招待されて出品 1933 オルドネール189番地のアトリエに入居 1934 ジュネーブ市立ラット美術館でスイスにおける 最初の個展を開催する 1936 アラール画廊で個展を開催 「プラス・サン・タンドレ・ザール」がフランス 政府買上げとなる サロン・ドートンヌ会員に推挙される 1937 パリ万国博覧会美術展に「ガラージュ」を出品 1940 サロン・ドートンヌ出品作「街角」がパリ市買上げ となる 帰国 新制作協会会員に迎えられ、第5回展に滞欧作を 特別陳列 1944 横江美代子と結婚 1946 長女恵美子生れる 1948 戦後初めて日本人画家として、再渡仏 以後パリを中心に制作活動を展開 1949 モナコで開催されたモナコ賞展で大賞を受賞 1953 フランス美術批評家協会からポピュリスト絵画賞を 贈られる 1954 「ヨーロッパ画壇における活躍と日本美術界への貢 献」に対して第5回毎日美術賞(特別賞)を贈られる 日本外務省から日仏文化協定混合委員を委嘱される 1955 神奈川県立近代美術館で「荻須高徳展」を開催 136点 を出品する 1956 パリ市立近代美術館「フランスと世界の画家展」に出品 ブリジストン美術で荻須高徳展が開催される フランス政府よりレジオン・ドヌール勲章を授与される 1961 サロン・デ・トロアS(フォンテーヌブロー)で大賞受賞 1932 サロン・アニエールに出品し受賞 1964 ロンドンのウィルデンシュタイン主催の「パリ記念展」 に出品 1965 毎日賞受賞記念大荻須高徳展(東京などで開催) 1966 モンテ・カルロ・テレビジョン国際フェスティバルの 審査員として招かれる 1967 ムルロー工房で最初のリトグラフ(石版画)制作 1968 サロン・デ・ザルッティスト・アンデパンダンに出品 1970 トルーヴィル国際ビエンナーレに出品 1971 神奈川県立近代美術館にて萩須高徳展開催 1972 勲三等旭日章に授章 中日文化賞受賞 1974 パリ市よりメダイユ・ドヴェルメイユ授与 1978 パリのシャトー・ド・バガテルで「荻須高徳パリ在住50 年記念回顧展」がパリ市主催で開催される 1980 荻須高徳稲沢市名誉市民に推挙される 歳稲沢市に油彩画《金のかたつむり》を寄贈 1981 文化功労者に顕賞され10年ぶりに帰国 1982 フランス国立造幣局が、荻須高徳の肖像を 浮彫にしたメダイユを発行する 1983 生地の愛知県稲沢市に稲沢市荻須高徳記念美術館が開館 1986 10月14日パリアトリエで制作中に逝去 享年84歳 文化勲章受章 個人美術館 稲沢市荻須記念美術館 |
広告塔(1928) | サン・タンドレ・デザール広場(1938) ポンピドゥーセンター所蔵 | 金のかたつむり(1978) 稲沢市荻須記念美術館収蔵 |
モンマルトル裏(1940) 東京国立近代美術館収蔵 |
パリの屋根(1950) 稲沢市荻須記念美術館収蔵 |