岡本太郎
1911年 2月26日漫画家・岡本一平、歌人で小説家の
岡本かの子の長男として、かの子の実家の
ある神奈川県橘樹郡高津村に生まれる
1917年 青山の青南小学校に入学するが1学期で
退学し、転校を繰り返す
1918年 慶応幼稚舎に入学し、寄宿舎に入る
1929年 東京美術学校(現東京藝術大学)に入学する
一平のロンドン軍縮会議の取材旅行に同行
し渡欧するため、神戸港を出発
1930年 マルセイユを経由してパリに到着
一平、かの子は取材のためロンドンに向か
い、太郎は一人パリに残る
ロンドンのハムステッド・ヒースの両親の
もとで夏休みを過ごす
1931年 パリ郊外のリセ「パンシオン・フランショ」
(市立学校寄宿舎)で生活
パリ大学ソルボンヌ校でヘーゲル美学を受講
1932年 ポール・ローザンベール画廊でのピカソ作品
「水差しと果物鉢」に感動する
サロンデ・シュール・アンデパンダン展に「空間」
を出品する
以降、何年かにわたり出品する
1933年 非具象芸術グループ「アプストラクシオン・
クレアシオン」の展覧会に出品
1935年 「アプストラクシオン・クレアシオン」のメン
バーであるクルト・セリグマンと「ネオ・コン
クレティスム」を提唱し、手に届く実感のあ
るものを追究する
ジュンヌ・ユーロップ画廊でクルト・セリグ
マンらとグループ展を開く
1936年 マックス・エルンスト、パトリック・ワルドベ
ルグと屋根裏で開かれたコントル・アタック
の集会に参加し、ジョルジュ・バタイユの演説
に感銘を受ける
「アプストラクシオン・クレアシオン」を脱会
1937年 G.L.M.社より初めての画集「OKAMOTO」が刊行
される
サロン・デ・シュール・アンデパンダン展に
「傷ましき腕」を出品し、アンドレ・ブルトンに
評価される
1938年 国際シュルレアリスム・パリ展に「傷ましき腕」
を出品
アンドレ・ブルトンらシュルレアリストらと
の親交が深まる
バタイユからの推薦により、秘密結社「アセフ
ァル(無頭人)」に参加する
パリ大学でマルセル・モースに師事し、民族
学を学ぶ
1939年 母・岡本かの子没(享年49歳)
1940年 ドイツ軍によるフランス侵攻により、最後の
引き揚げ船・白山丸で帰路につく
1941年 第28回二科展に滞欧作品「傷ましき腕」「コント
ルポアン」等4点を特別出品する
二科賞を受賞
「岡本太郎滞欧作品展」を銀座三越にて開催
横光利一、藤田嗣治、岡鹿之助らがパンフレッ
トに執筆
1942年 現役初年兵として兵役につき、中国戦線へ
1946年 約半年間の中国・洞庭湖近くの俘虜生活を経
て復員
戦火により青山の自宅にあった作品の全てを
焼失したことを知る
一平の疎開先である岐阜県加茂郡西白川村を
訪ね再会する
鎌倉の川端康成宅、かの子の実家などを転々
とする
1947年 二科会員に推挙される
上野毛にアトリエを構える
自らの芸術理念の核として「対極主義」を提唱
第32回二科展に「夜」「憂愁」を出品
1948年 花田清輝らと「夜の会」を結成し、前衛芸術
運動を開始する
安部公房、埴谷雄高、野間宏、椎名麟三らが
参加
日本アヴァンギャルド美術クラブの主催で、
「モダン・アート」展開催
「アヴァンギャルド芸術研究会」を発足
第33回二科展に「夜明け」を出品
父・岡本一平没(享年62歳)
一平のデスマスクを描く
以後、一平の後妻と3人の子供は太郎が引き取
り生活の面倒をみる。
1949年 第1回日本アンデパンダン展に「赤い兎」を出品
第34回二科展に「重工業」を出品
「新しい芸術の探求」(夜の会編)が月曜書房
から出版される
1950年 読売新聞社主催の「現代美術自選代表作十五人展」
に「傷ましき腕」「露店」等を出品
第2回日本アンデパンダン展の開会日に食堂で
「対極主義宣言」を読み上げ、
対極主義美術協会の結成を呼びかけるが、賛同を
得られず流会となる
第35回二科展に「森の掟」を出品
1951年 戦後に制作された作品を集めた「岡本太郎展」が
日本橋三越で開催される
東京国立博物館にて縄文土器を見て衝撃を受ける
1952年 縄文土器を見た衝撃を「四次元との対話―縄文土器
論」として「みづゑ」に発表
第4回日本アンデパンダン展にモザイクタイル壁画
の第1作「太陽の神話」出品
地下鉄日本橋駅に26メートルのモザイクタイル壁画
「創生」を制作
常滑焼による作品「顔」を制作
パリでの「サロン・ド・メ」展に[夜明け][堕天使]を
出品
大阪・高島屋にて「岡本太郎展」渡欧記念展を開催
ヨーロッパを再訪し、マックス・エルンスト、ジャン・
アルプらと再会
この頃よりスキーを始める
1953年 パリ・クルーズ画廊にて個展
当時パリにいた菅井汲、今井俊満、田淵安一らが手伝
い、オープニングにはザッキン、ソニア・ドローネー
バタイユ、ラゴン、ミショー、スーポーらが来訪
南仏・ヴァロリスのピカソのアトリエを訪ねる
日本のアヴァンギャルド芸術家約50人と瀧口修造、
植村鷹千代ら批評家が加わって国際アート・クラブ
日本支部が結成され、その代表に選出される
ニューヨークのヒューゴー画廊にて個展
日本橋・高島屋ショーウインドーのディスプレイを担当
第2回サンパウロ・ビエンナーレに日本代表の1人と
して出品
「青春ピカソ」(新潮社)を出版
1954年 第27回ヴェネチア・ビエンナーレに日本代表として、
坂本繁二郎とともに選出
「今日の芸術―時代を創造するものは誰か」刊行
(光文社)、ベストセラーになる
坂倉準三設計によるアトリエが青山に完成し、現代芸
術研究所を設立
一平の七回忌に多磨霊園にある墓碑へ陶の作品「顔」
を設置
1955年 淡交社主催の「実験茶会」の亭主として茶会を催す
第40回二科展に「瞬間」を出品
二科会第9室に若手作家を集めた特別室ができ、「太郎
部屋」と呼ばれ注目される
現代芸術の会の第1回例会が開かれる
出席者は太郎のほか、丹下健三、亀倉雄策、柳宗理ら
以降毎月例会がもたれる
原爆と人間を象徴する大作「燃える人」を毎日国際展
に出品
ヘリコプターで東京・銀座の夜空に光で絵を描く
1956年 島耕二監督のSF映画「宇宙人東京に現わる」のデザイン
色彩指導を務める
東京・中央区築地にある松竹セントラル劇場にモザイク
タイル壁画「青春」を設置
東京大手町・大和証券ホールに陶板レリーフ壁画「踊り」
を制作
丹下健三設計の(旧)東京都庁に11面の陶板レリーフを
制作
日本橋高島屋にて「世界・今日の美術」展を企画し、ジョ
ルジュ・マチュー、サム・フランシス、ジャン・フォートリエ
らアンフォルメルの作家を多数紹介する
縄文土器論を収録した「日本の伝統」(光文社)を出版
1957年 「日本再発見-芸術風土記」を「芸術新潮」に連載し、日本各地
を精力的に取材
ミシェル・タピエが来日の際にジョルジュ・マチューを太郎
に紹介、太郎はマチューの公開制作のためにアトリエの庭
を提供する
アンフォルメルがブームとなる
第11回ミラノ・トリエンナーレに陶版画「陽」を出品
1958年 国鉄神田駅地下道に3面のモザイクタイル壁画を制作
第3回日本現代美術展に「ドラマ」を出品
「日本再発見―芸術風土記」(新潮社)を出版
1959年 武智鉄二演出のオペラ「ローエングリン」の美術を担当
(東京国立競技場)
第44回二科展に彫刻「動物」を出品
沖縄に旅行し、「御嶽」に感動する
長野県戸倉スポーツランドにモニュメント「動物」を制作
東京都庁の壁画で、フランスの雑誌「今日の建築」の国際
建築絵画大賞授与
「画文集・黒い太陽」(美術出版社)を出版
1960年 銀座松坂屋中央ホールに「真夏の夢」をディスプレイする
「沖縄文化論」を『中央公論』に連載する
1961年 「忘れられた日本<沖縄文化論>」(中央公論社)を出版、
毎日出版文化賞を受賞
草津・白根山でスキー中に骨折、ギプスのはめられた足に
想を得て、彫刻「あし」を制作
東宝劇団歌舞伎旗揚げ興行「寿二人三番叟」の美術を担当
する(東京宝塚劇場)
二科会を脱会する
東京・銀座、東京画廊にて個展
1962年 カルピス相模原工場に、モザイクタイル壁画「初恋」を制作
川崎市多摩川河畔に岡本かの子文学碑「誇り」を制作する
池袋駅前広場に高さ12メートルアルミ製クリスマスモニュ
メント「メリーポール」を制作
1963年 フランス、イタリア、アメリカ、メキシコを旅行する
アントニン・レイモンドと協力してディヴス氏邸に彫刻と
壁画による浴室を制作
池袋駅前広場に東京オリンピックを記念して「ヴィクトリ
ー・ポール」を制作する
1964年 池袋・西武百貨店と銀座・東京画廊で個展を開催
東京オリンピック参加記念メダルを制作する
丹下健三設計の代々木国立競技場に陶板レリーフとモザ
イクタイル壁画を制作
韓国に取材旅行に出かける
「神秘日本」(中央公論社)を出版
1965年 「岡本太郎の眼」を『週間朝日』に連載する
銀座・東京画廊にて梵鐘とろうそくの作品による「鐘と
炎」展を開催する
名古屋・久国寺に梵鐘「歓喜」を制作
1966年 伊豆・富士見ランドに高さ7,3メートルの彫刻に吊るした
「太陽の鐘」を制作する
銀座・数奇屋橋公園に「若い時計台」を制作する
1967年 日本万国博覧会のテーマ館展示プロデューサーに就任する
テレビ映画「岡本太郎の探る中南米大陸」撮影のため
中南米に旅行する
1968年 万国博へ国際協力の要請をするため、パリ、プラハ、
ロンドンを歴訪
メキシコのホテル大壁画「明日の神話」制作のため、
現地にアトリエを構える
万国博テーマ館展示の基本構想を発表
東京・銀座松屋にて「太郎爆発」展が開催される
(会場構成は磯崎新)
東京・大田区山王にマミ会館の建築設計をする
「原色の呪文」(文藝春秋)、「画集・岡本太郎」
(美術出版社)を出版
1969年 ライター「火の接吻」が売り出される
犬山ラインパークにシンボルタワー「若い太陽の塔」
を制作
別府駅前サンドラック・ビルの外壁に陶板レリーフ
壁画「緑の太陽」を制作
メキシコにて「明日の神話」の制作を続ける
1970年 「わが世界美術史」を『芸術新潮』に1年間連載する
日本万国博覧会に「太陽の塔」「母の塔」「青春の塔」を
含むテーマ館完成
「TARO爆発」展がパリ、アルジェ、チュニスを巡回
泉靖一との対談からなる「対談・日本列島文化論」
(大光社)を出版
1971年 日商岩井音羽マンションのインテリア構成を行う
パリ、フォーブル・サントノーレ芸術祭「街の美術館」
に「樹人」を出品
名古屋のオリエンタル中村百貨店正面外壁に光る
大壁画を完成
「美の呪力―わが世界美術史」(新潮社)を出版
1972年 札幌オリンピックの公式メダルを制作
山陽新幹線開通にあわせ、新幹線岡山駅に陶板壁画
「躍進」を制作
ミュンヘンで開催された「シュルレアリスム」展
に「傷ましき腕」を出品
(パリ・ルーブル美術館内装飾美術館を巡回)
ミュンヘン・オリンピックの公式メダル制作
1973年 飛行船(積水ハウス、全長56メートル)に絵を描く
1974年 パリで版画集「アプストラクシオン・クレアシオン
・アール・ノンフィギュラティーフ 1931-36」が刊行
され、アルプ、カンディンスキー、モンドリアン
ら代表作家30人の中に選ばれる
NHK放送センターロビーにレリーフ壁画「天に舞う」
制作
きもの柄をデザインし、「TAROきもの」として発売
パリのポール・ネムー出版より最初の版画集「絶対的
そして無目的に」(セリグラフィー)が刊行される
信州・野沢温泉にシュナイダー記念碑を制作
諏訪大社近くにある「万治の石仏」に出会い絶賛する
1975年 「太陽の塔」の永久保存が決定される
晴海の店舗システム・ショーに岡本太郎そっくりの
人形が出品され話題となる
パリ大学民族学教授ジャン・ルーシュのインタビュ
ーと撮影による「岡本太郎―
マルセル・モースの肖像」が、イタリア・アゾロの映画
祭で芸術家の伝記大賞受賞
パリ国際センターに5枚の壁画を制作
1976年 著作「美の呪力」の仏訳がパリのセゲール社より出版
される
「TARO展―挑み・燃え・ひらく岡本太郎」が日本橋
高島屋で開催される
(パリ市ガリエラ美術館を巡回)
キリン・シーグラム社のロバートブラウン発売2周年
記念に「顔のグラス」を制作
ガリエラ美術館での展覧会を記念して、版画集と画
集が出版される
スペインに旅行し、翌年報知新聞に紀行を連載
1977年 スペイン国立版画院に、日本人で初めて銅版画が収
蔵される
ベルギーで制作した創作デザイン・トランプが講談
社より発売される
「岡本太郎の挑戦するスキー」(講談社)を出版
1978年 テレビ番組「もう一つの旅」撮影のため、バルセロナ
にガウディの建築を見に行く
福山市・日本はきもの博物館中庭に「足あと広場」を
制作
1979年 「人生相談にらめっこ問答」の連載を「週刊プレボー
イ」(集英社)にて始める
札幌雪まつり30周年を記念するシンボル、大雪像
「雪の女神」を制作
「岡本太郎著作集」(全9巻・講談社)が翌年にか
けて出版される
作品集「岡本太郎」(平凡社)を出版
1980年 新宿小田急グランドギャラリーでの「挑む-岡本太郎
」展を記念して、新宿駅西口広場で、絵画文字[挑む]
の公開制作を行う
1981年 極彩色の鯉のぼり「TARO鯉」が発売される
テレビセミナー「マイコン時代」(TBS)に出演し、初め
てコンピューターで絵を描く
山梨県立美術館で「岡本太郎」展が開催される
極彩色の絵のような文字100字が収録された画集
「遊ぶ字」(日本芸術出版社)刊行
「日立マクセルビデオカセット」のコマーシャルに出演
「梵鐘」を叩きながら叫ぶ「芸術は爆発だ!」の言葉が
流行語大賞の語録賞を受賞
1982年 青森県古牧温泉渋沢公園に、日本カッパ龍神祭りの
シンボル「カッパ神像」を制作
テレホンカードとして「遊ぶ字」のシリーズが日本
電信電話公社より発売される
「美の世界旅行」(新潮社)を出版
1983年 山形県の観光スキー映画「山形は白い国、岡本太郎
のスキー」に出演
京都じゅらくより、振袖・帯など発売される
1984年 フランスの香水フェアシンボル《香りの塔》を原宿
ラフォーレ前に展示
フランス政府より芸術文化勲章を受ける
1985年 筑波科学技術博覧会にシンボルモニュメント「未来
を視る」を制作
横浜そごう屋上・太陽の広場にシンボルモニュメン
ト「太陽」を制作
青山・こどもの城にシンボルモニュメント「こども
の樹」を制作
イギリス・オックスフォード近代美術館における
「日本の前衛芸術」展に出品
1986年 日本テレビ「テレモンジャ」にレギュラー出演
パリのポンピドゥー・センターでの展覧会「日本の
前衛美術」展に出品
1987年 さよなら国鉄・新生JRの記念メダ「出発」を制作
NHK制作のテレビドラマ「ばら色の人生」に俳優と
してレギュラー出演
青森県三沢市古牧温泉、古牧第三グランドホテル
に「天平図」「長生夢幻」「端鳥」設置
1988年 草月会館で岡本太郎喜寿を祝う会が行われる
岐阜未来博にシンボルモニュメント「未来を拓く」
を制作
ダスキンのフリーデザインマットのコマーシャル
に出演
翌年アメリカの第29回国際放送広告賞を受賞
「自分の中に毒を持て」(青春出版社)を出版
1989年 フランス政府よりフランス芸術文化勲章を受章
1990年 岩手県藤沢町の縄文野焼祭・縄文サミットに参加
シンボルとして「縄文人」を展示
1991年 奥入瀬渓流グランドホテルのラウンジ中央に暖炉
彫刻「森の神話」を制作
長野県野沢温泉村・名誉村民第1号を贈られる
東京都庁の新宿移転にともない、丸の内庁舎取り
壊しが決定、56年に制作した陶板レリーフの保
存運動がおこるが、9月に取り壊される
十二指腸潰瘍で慶應病院に入院
川崎市市民ミュージアムにて「川崎生まれの鬼才
―岡本太郎」展
川崎市に主要作品を寄贈。翌年、岡本太郎美術館
の建設が発表される
1992年 「岡本太郎の世界」が『美術手帖』5月号で特集
される
1993年 浦安市舞浜の運動公園に「躍動の門」「五大陸」を
制作
青森県三沢市の古牧チャペルに「歓びの鐘」を
制作
1995年 翌年にかけて「岡本太郎」展の巡回
(大阪高島屋、広島市現代美術館)
1996年 パーキンソン病による急性呼吸不全にて死去
享年84歳
草月会館草月プラザにてお別れ会「岡本太郎
と語る広場」が開かれる
1998年 青山のアトリエに岡本太郎記念館が開館
「岡本太郎の本」が2000年にかけて出版される
(全5巻・みすず書房)
1999年 川崎市岡本太郎美術館開館
2000年 岡本太郎記念館にて「連続講座-岡本太郎と語
る」がスタート
2003年 メキシコシティ郊外にて岡本太郎の巨大壁画
「明日の神話」を発見
岡本敏子が現地で確認をする
2004年 「明日の神話」再生プロジェクトを創設
ゼネラルプロデューサーに平野暁臣が就任
2005年 岡本敏子急逝 享年79歳
2006年 「明日の神話」修復作業が完了
東京・汐留の日本テレビゼロスタ広場で
一般公開
2007年 東京都現代美術館にて「明日の神話」が
特別公開される |