松本零士
1938年 1月25福岡県久留米市に生まれる
父がテストパイロットをやっていた関係で、4歳から6歳まで
兵庫県明石市の川崎航空機の社宅に住んだ
その後は母親の実家がある愛媛県喜多郡新谷村(大洲市新谷町)
に疎開していた[3][5](両親共に大洲市の出身である)
このときアメリカ軍の戦闘機や、松山市へ空襲に向かうB-29等の
軍用機を多数目撃、この体験が後の作品に影響を与えたという
終戦後、小学校三年から福岡県小倉市(現・北九州市)に移る
小倉市立米町小学校(現・北九州市立小倉中央小学校)の時から
漫画少年で、高井研一郎らと同人グループ「九州漫画研究会」を
結成し、同人誌「九州漫画展」を主宰。 松本が漫画家を志した
理由は彼が小学二・三年の頃にあった学級文庫である
それは手塚治虫の漫画『新宝島』『キングコング』『火星博士』
『月世界紳士』であった
小倉市立菊陵中学校(現・北九州市立菊陵中学校)に進学。
1954年 福岡県立小倉南高校1年生のときの投稿作「蜜蜂の冒険」
が『漫画少年』(昭和29年2年号)に掲載されデビュー
そのときから中央でも既に知られる存在で、手塚治虫が
出奔先の九州で原稿を描くときに高井、松本ら九州漫画
研究会にアシスタントを頼んだというエピソードもある
またこの頃から1957年まで「毎日小学生新聞」に多数のマンガが
掲載される
1957年 毎日新聞西部本社版で連載をするはずだったが急に担当
者が代わりその話は反故にされ
しかし月刊少女雑誌『少女』での連載が決定して上京
「少女」と「少女クラブ」に不定期で描く少女漫画家で出発
少女漫画においてスランプに至った頃にはライターとし
てタレントの取材などを手がけ、その後1960年前後から
少年誌、青年誌にも進出
デビュー時は「松本あきら」名義を使用しており、
「松本零士」を使うようになったのは1965年以降である
1962年 漫画家の牧美也子と結婚
1971年 『週刊少年マガジン』に『男おいどん』連載開始
1972年 『男おいどん』で講談社出版文化賞受賞
松本ならではの「四畳半もの」いう独自のジャンルを開拓
1974年 秋から放送されたテレビアニメ『宇宙戦艦ヤマト』には
企画途中から参加
メカニックデザイナーとしての招聘だったが、かねてか
らアニメ作りを願望していた松本は全面的に携わった
本放送時には低視聴率に終わったものの、再放送によっ
て人気を得る
1977年 『宇宙戦艦ヤマト』劇場版アニメ公開時には社会現象を
巻き起こした
これがアニメブームのきっかけとなり、松本はアニメ制作
会社の東映動画にイメージクリエイターとして起用され、
テレビアニメ『惑星ロボ ダンガードA』『SF西遊記スター
ジンガー』にデザインを提供
また、自らも企画として温めていた「銀河鉄道999」「宇宙
海賊キャプテンハーロック」がヤマト人気によりアニメ化
が決定され、特に「銀河鉄道999」は大ヒットし、松本零士
ブームが到来。以降数々の松本アニメが作られた
1982年 この頃からの松本アニメブーム『わが青春のアルカディア』
『わが青春のアルカディア 無限軌道SSX』の頃には下火と
なり、1983年夏の劇場アニメ映画として企画されていた
『クイーン・エメラルダス』 は頓挫して、ブームは終焉
その後20年近く松本原作のテレビアニメは実現しなかった
1980年代後半からは、宇宙開発事業団など様々な団体の役職に就任
漫画の執筆では、自作の異なる作品に登場した人気キャラクターを
同一の作品世界にまとめる作業を進める
往年の松本アニメブームで育ったクリエイターにより、1990年代後
半以降再び松本作品を原作としたアニメのリリースが活発となった
2003年 画業50周年記念作品として『銀河鉄道999』から派生した
『銀河鉄道物語』が発表された。
2006年 宝塚造形芸術大学(2010年宝塚大学に名称変更)のメディア
・コンテンツ学部の教授に就任
2015年 妻の牧美也子と「松本零士X牧美也子夫婦コラボ」で話題となる
2019年 11月15日イベント出席のため訪問中だったイタリア・トリノ
で体調を崩して倒れ現地の病院へ緊急搬送されたが命に別状
なく、12月4日に退院、翌5日に帰国した
旭日小綬章、紫綬褒章、フランス芸術文化勲章シュバリエ受章
称号は練馬区名誉区民 |