佐伯祐三

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30年の短い活動期間の大部分をパリのモンパルナス
等で過ごし、フランスで客死した。佐伯の作品はパリ
の街角、店先などを独特の荒々しいタッチで描いた。
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 作家名 佐伯祐三
 制作年 2007
 技法 リトグラフ
 絵サイズ 縦62X横46cm
 絵の状態 良  好
 額サイズ 縦93.2X横77cm
 額の状態 ほぼ良好
 限定 300部
 サイン 摺師Philippe Blancheのサイン
 額の仕様 黒金虫食額縁
 マット 麻布マット
格安卸価格7万4000円
税込79,920円

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佐伯祐三

佐伯は画家としての短い活動期間の大部分をパリのモン
パルナス等で過ごし、フランスで客死した。
佐伯の作品はパリの街角、店先などを独特の荒々しいタ
ッチで描いたものが多い。佐伯の風景画にはモチーフと
して文字の登場するものが多く、街角のポスター、看板
等の文字を造形要素の一部として取り入れている点が特
色である。作品の大半は都市風景だが、人物画、静物画
等もある。

佐伯は1898、大阪府西成郡中津村(現大阪市北区中津二
丁目)にある光徳寺の男4人女3人の兄弟の次男として生
まれた。1917東京の小石川(現・文京区)にあった川端
画学校に入り、藤島武二に師事する。
旧制北野中学(現大阪府立北野高等学校)を卒業した後
1918には吉薗周蔵の斡旋で東京美術学校(現東京藝術大
学)西洋画科に入学し、引き続き藤島武二に師事、1923に
同校を卒業した。東京美術学校では、卒業に際し自画像を
描いて母校に寄付することがならわしになっており、佐
伯の自画像も現存している。
鋭い眼光が印象的なこの自画像は、作風の面では印象派
風の穏やかなもので、後のパリ滞在中の佐伯の作風とは
かなり異なっている。なお、在学中に結婚した佐伯の妻
・佐伯米子(旧姓・池田)も絵を描き二科展などにも入
選していた。

佐伯はその後満30歳で死去するまでの6年足らずの画家
生活の間、2回パリに滞在し、代表作の多くはパリで描
かれている。第1回のパリ渡航は1924年1月から1926年
1月までで、約2年の滞在であった。
1924のある時(初夏とされる)佐伯はパリ郊外のオーヴ
ェル=シュル=オワーズ(ゴッホの終焉の地として知ら
れる)に、フォーヴィスムの画家モーリス・ド・ヴラマ
ンクを訪ねた。佐伯は持参した自作「裸婦」を見せたと
ころ、ヴラマンクに「このアカデミックめ」と一蹴され、
強いショックを受けたとされる、その後、何度かヴラマ
ンクの下に足を運んでいる)。
事実、この頃から佐伯の画風は変化し始める。この第一
次滞仏時の作品の多くはパリの街頭風景を描いたもので
、ヴラマンクとともにユトリロの影響が明らかである。
佐伯はパリに長く滞在することを望んでいたが、佐伯の
健康を案じた家族らの説得に応じ、1926にいったん日本
へ帰国した。パリでの友人である前田寛治、里見勝蔵、
小島善太郎らと「1930年協会」を結成する。

2度目の滞仏はそれから間もない1927年8月からであり、
佐伯はその後ふたたび日本の土を踏むことはなかった。
佐伯は旺盛に制作を続けていたが、1928年3月頃より持
病の結核が悪化したほか、精神面でも不安定となった。
「黄色いレストラン」が屋外で描いた最後の作品で「描
ききった」と家族に説明していたという。屋内ではその
後も偶然訪れた郵便配達夫をモデルに油絵2点、グワッシ
ュ1点を描く(この郵便配達夫は後にも先にもこの時にし
か姿を見せなかったことから、佐伯の妻はあの人は神様
だったのではないか、と語っている)。自殺未遂を経て
、ヌイイ=シュル=マルヌのセーヌ県立ヴィル・エヴラ
ール精神病院に入院。一切の食事を拒み、同年8月16日
妻が娘の看病をしていたので妻に看取られることなく衰
弱死した。墓所は生家である大阪市の光徳寺と東京都千
代田区の心法寺。

山発産業創業者の山本発次郎が佐伯の画を熱心に収集し、
戦時中にはコレクションの疎開を行ったしかしそれでも
空襲により収集作品の8割は灰となり失われた。
現在、佐伯の作品は大阪中之島美術館準備室5点、和歌
山県立近代美術館14点など、日本各地の34カ所に所蔵
されている。

佐伯祐三年譜

1898 大阪府西成郡中津村(現大阪市北区中津二丁目)
   にある光徳寺の男4人女3人の兄弟の次男として
   生まれた

1917 東京の小石川(現文京区)にあった川端画学校に
   入り、藤島武二に師事する

   旧制北野中学(現大阪府立北野高等学校)を卒業

1918 吉薗周蔵の斡旋で東京美術学校(現東京藝術大学)
   西洋画科に入学し、引き続き藤島武二に師事する

1923 東京美術学校を卒業
   東京美術学校では、卒業に際し自画像を描いて母
   校に寄付することがならわしになっており、佐伯
   の自画像も現存している
   鋭い眼光が印象的なこの自画像は、作風の面では
   印象派風の穏やかなもので、後のパリ滞在中の佐
   伯の作風とはかなり異なっている
   なお、在学中に結婚した佐伯の妻・佐伯米子も絵
   を描き二科展などにも入選していた

1924 1月第1回のパリ渡航(〜1926年1月)
   パリ郊外のオーヴェル=シュル=オワーズ(ゴッ
   ホの終焉の地として知られる)に、フォーヴィス
   ムの画家モーリス・ド・ヴラマンクを訪ねた
   佐伯は持参した自作『裸婦』を見せたところ、ヴ
   ラマンクに「このアカデミックめ!」と一蹴され、
   強いショックを受けたとされる
   その後、何度かヴラマンクの下に足を運んでいる
   事実、この頃から佐伯の画風は変化し始める
   この第一次滞仏時の作品の多くはパリの街頭風景
   を描いたもので、ヴラマンクと共にユトリロの影
   響が明らかである
   佐伯はパリに長く滞在することを望んでいたが、
   佐伯の健康を案じた家族らの説得に応じ、1926に
   いったん日本へ帰国した
   パリでの友人である前田寛治、里見勝蔵、小島善
   太郎らと「1930年協会」を結成する

1927 8月2日第2回度目のパリ渡航

1928 3月持病の結核が悪化したほか精神面でも不安定
   となった
   「黄色いレストラン」が屋外で描いた最後の作品で
   「描ききった」と家族に説明していたという。
   屋内ではその後も偶然訪れた郵便配達夫をモデル
   に油絵2点、グワッシュ1点を描く(この郵便配達
   夫は後にも先にもこの時にしか姿を見せなかった
   ことから、佐伯の妻はあの人は神様だったのでは
   ないか、と語っている)
   自殺未遂を経て、ヌイイ=シュル=マルヌのセー
   ヌ県立ヴィル・エヴラール精神病院に入院。一切
   の食事を拒み、8月16日、妻が娘の看病をしていた
   ので妻に看取られることなく衰弱死した
   墓所は生家である大阪市光徳寺と東京都千代田区
   の心法寺
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