上村松園(1875-1949)の次女として生まれた。 京の伝統文化に育まれた松園は、明治・大正・昭和を通して 生涯、「一点の卑俗なところもなく、清澄な感じのする香高 い珠玉のような絵」、「真・善・美の極致に達した本格的な美 人画」(いずれも松園のことば)を念願として女性を描き 続けた。 松園は誕生2か月前に父を亡くしている。 母仲子は女手一つで松園と姉、2人の娘を育て上げた。 明治の女性が画家を志すなど、世間で認めるところではな かったが、仲子は常に松園を理解し励まし支え続けた。 松園はその著書『青眉抄』で母を追憶して「私は母のおか げで、生活の苦労を感じずに絵を生命とも杖ともして、それ と闘えたのであった。 私を生んだ母は、私の芸術までも生んでくれたのである」 と述べている。 母を亡くした後には、「母子」「青眉」「夕暮」「晩秋」 など母を追慕する格調高い作品が生まれた。 気品あふれる作品群の中で、特異な絵が2枚ある。 「花がたみ」と「焔」(ほのお)である。 1915年の「花がたみ」の題材、謡曲『花筐』(はながたみ) は、継体天皇の皇子時代に寵を受けた照日の前が形見の花 筐を手に都に上り、紅葉狩りに行き逢った帝の前で舞うと いう内容である。 208×127cmの大作である。 松園は能面「十寸髪」(ますがみ)を狂女の顔の参考にし たという。 1918年の「焔」の題材、謡曲『葵上』は、『源氏物語』に 登場する六条御息所の生霊を桃山風俗にて描いた、松園言 うところの「数多くある絵のうち、たった一枚の凄艶な絵」 である。 誇り高い六条御息所は、光源氏の正妻葵の上への屈辱と嫉 妬から生霊になり、葵の上を取り殺してしまう。 後れ毛を噛む女の着物には藤の花と蜘蛛の巣が描かれてい る。189×90cmの大作で、大変な迫力をもって見る者に迫 る絵である。 上村松園年譜 1875 4月23日京都市下京区四条通御幸町の葉茶屋「ちき り屋」の次女として生まれる(本名:津禰:つね) 1887 京都府画学校入学(現:京都市立芸術大学) 鈴木松年の指導をうける 1888 雅号として「松園」を用いる 鈴木松年の辞職により京都府画学校を退学し松年塾 に入る 1890 第3回内国勧業博覧会に「四季美人図」を出品、一等褒 状受賞(この絵を、来日中のヴィクトリア女王の三 男アーサー王子が購入し話題となった) 1893 幸野楳嶺に師事 隣家からの類焼の為中京区高倉蛸薬師に転居 市村水香に漢学を学び始める 農商務省より米国シカゴ万国博覧会に「四季美人」 出品 1895 楳嶺の死去にともない、竹内棲鳳(竹内栖鳳)に師事 1900 第九回日本絵画協会日本美術院連合展で「花ざかり」 が銀牌受賞 パリ万国博覧会に「母子」を出品 1902 嗣了信太郎(松篁)生まれる 1903 茶屋を廃業し、中京区車屋町御池に転居 第五回内国勧業博覧会に「姉妹三人」出品 1907 文展(文部省美術展覧会)が開設され、第一回展に 「長夜」出品 1909 青木嵩山堂から「松園美人画譜」を出版 第十四回新古美術品展に「虫の音」出品 1911 ローマ万国博覧会に「上苑賞秋」「人形づかい」 (旧作)出品 1914 間之町竹屋町に画室を竣工 初世金剛巌に謡曲を習い始める 1916 文展永久無鑑査となる 第十回文展に「月蝕の宵」出品 1918 先師・鈴木松年死去 第十一回文展出品 1924 第六回帝展審査員となる 1930 徳川喜久子姫・高松宮家御興入御依頼画「春秋」制作 ローマ日本美術展に「伊勢大輔」出品 1931 ベルリン日本美術展に「虫干」出品 ドイツ政府の希望により同作品を国立美術館に寄贈 赤十字賞受賞 1934 第15回帝展に「母子」出品 大礼記念京都美術展に「青眉」出品 帝展参与となる 母・仲子死去 1935 竹内栖鳳、土田麦僊ら十七名によるグループ春虹会 に参加 第一回展に「天保歌妓」を出品 第一回三越日本画展に「鴛鴦髷」出品 1936 新文展(文部省美術展覧会)の招待展に「序の舞」出品 第二回春虹展に「春宵」を出品 1940 ニューヨーク万国博覧会に「鼓の音」出品 第六回珊々会展に「若葉」出品 1941 帝国芸術院会員となる 第四回文展に「晴日」出品 三谷十糸子と中国に旅行 1944 帝室技芸員に就任 1945 奈良県生駒郡平城の松篁の画室である唳禽荘(れい きんそう)に疎開する 1956 第一回日展審査員となる 1948 文化勲章受賞 白寿会展に「庭の雪」出品 1949 8月27日、肺癌により死去 従四位に叙される享年74歳 法名は、寿慶院釋尼松園 京の伝統文化に育まれた松園は、明治・大正・昭和を通して 生涯、「一点の卑俗なところもなく、清澄な感じのする香高 い珠玉のような絵」、「真・善・美の極致に達した本格的な美 人画」(いずれも松園のことば)を念願として女性を描き 続けた。 松園は誕生2か月前に父を亡くしている。 母仲子は女手一つで松園と姉、2人の娘を育て上げた。 明治の女性が画家を志すなど、世間で認めるところではな かったが、仲子は常に松園を理解し励まし支え続けた。 松園はその著書『青眉抄』で母を追憶して「私は母のおか げで、生活の苦労を感じずに絵を生命とも杖ともして、それ と闘えたのであった。 私を生んだ母は、私の芸術までも生んでくれたのである」 と述べている。 母を亡くした後には、「母子」「青眉」「夕暮」「晩秋」 など母を追慕する格調高い作品が生まれた。 気品あふれる作品群の中で、特異な絵が2枚ある。 「花がたみ」と「焔」(ほのお)である。 1915の「花がたみ」の題材、謡曲『花筐』(はながたみ) は、継体天皇の皇子時代に寵を受けた照日の前が形見の花 筐を手に都に上り、紅葉狩りに行き逢った帝の前で舞うと いう内容である。 208×127cmの大作である。 松園は能面「十寸髪」(ますがみ)を狂女の顔の参考にし たという。 1918の「焔」の題材、謡曲『葵上』は、『源氏物語』に 登場する六条御息所の生霊を桃山風俗にて描いた、松園言 うところの「数多くある絵のうち、たった一枚の凄艶な絵」 である。 誇り高い六条御息所は、光源氏の正妻葵の上への屈辱と嫉 妬から生霊になり、葵の上を取り殺してしまう。 後れ毛を噛む女の着物には藤の花と蜘蛛の巣が描かれてい る。189×90cmの大作で、大変な迫力をもって見る者に迫 る絵である。 代表作品 『焔』 1918 東京国立博物館蔵 『序の舞』 1936 東京芸術大学蔵 重要文化財 1965発行の切手趣味週間の図案に採用されている (2000重要文化財指定)1936絹本着彩 233cm×141.3cm 「なにものにも犯されない、女性のうちにひそむ強い意志」を 、静かなうちに凛として気品のある仕舞「序の舞」を通して 描いている。 絵のモデルは上村松篁の妻(上村淳之の母)の未婚時代の姿 である。 松園をモデルにした宮尾登美子の小説の題名にもなった。 『母子』 1934 東京国立近代美術館蔵 重要文化財 「母子」上村松園、切手(1980) 「清少納言」 1892 「人生の花」 1899 婚礼の席に向かう花嫁とその母の姿 「娘深雪」(むすめみゆき)1914 浄瑠璃「朝顔日記」に取材 「舞支度」(一対)1914 「花がたみ」1915 謡曲『花筐』に取材 「焔」(ほのお)1918 謡曲『葵上』に取材 「楊貴妃」1922 「待月」「良宵之図」1926 「簾のかげ」「新蛍」1929 「春秋図」(一対) 1930 うら若い娘たちを春に、やや 年長の女を秋に見立てた図。 「伊勢大輔」 1930 「母子」(重要文化財) 1934 「青眉」(あおまゆ)1934 「草子洗小町」(そうしあらいこまち) 1937 謡曲『小町』 および初世金剛巌の能舞台に取材。古歌の剽窃との濡れ衣を 掛けられた小野小町は、その証拠とされた草子を洗って疑い を晴らしたという伝承 「雪月花」(三幅対) 1937 貞明皇后御用画 「砧」(きぬた) 1938謡曲『砧』の妻の端麗な姿を元禄風俗 で描く 「晴日」1941 たすきがけで着物の洗い張りをしている女性 「夕暮」1941 障子を開けて、夕暮れの光で針に糸を通そう としている女性 「晩秋」194 3障子の破れを繕っている女性 「静」 1944 静御前に取材 |