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谷内六郎1921年東京恵比寿に9人きょうだいの6男として生まれる。持病の喘息のため、小学校卒業後は進学をせず、漫画や挿絵 などを新聞や雑誌に投稿するようになる。 1952年頃から兄が経営する染色工房「らくだ工房」でろうけつ 染めのハンカチや帯などの布製品を制作する。 1955年第1回文藝春秋漫画賞を受賞。 翌年、雑誌『週刊新潮』の創刊と同時に表紙絵を担当する。 1971年に横須賀市の観音埼灯台で1日灯台長をつとめ、1975 には横須賀市にアトリエを構える。 広島の呉市広中央中学校養護学級「たけのこ学級」や静岡県 の「ねむの木学園」と交流し、福祉活動にも力を注いだ。 1981年1月に急性心不全のため亡くなるが、その時点で『週刊 新潮』表紙絵は1303枚となっていた。 その後、未発表作品などでこの年の最終号まで表紙を飾ったた め、合計は1335枚となる。 (創刊号の原画を再使用した通巻1000号は除く) 谷内は25年の間表紙絵を描きつづけ、表紙を飾った期間は足か け26年にわたる。 谷内六郎年譜 1921 12月2日東京・恵比寿で9人兄弟の6男として生まれる 駒沢尋常高等小学校卒業の後、見習い工員等をしなが ら絵を独学で学ぶ 幼少より喘息で入退院を繰返すが、絵筆は離さず10代の 頃から新聞・雑誌にイラストや漫画が掲載される 戦後、漫画仲間の鈴木善太郎、片寄貢らと銀座の街頭 で政治風刺漫画を描く 1945 12月に創刊された左翼系の新聞「民報」に4コマ漫画 『真実一郎君』を連載 1955 『文藝春秋』臨時増刊「漫画讀本」に発表 「行ってしまった子」(「おとなの絵本」より)で第1回文藝 春秋漫画賞を受賞 1956 『週刊新潮』の創刊号から表紙絵を担当 大丸東京店で初個展「谷内六郎作品展」開催 1958 人形作家の熊谷達子と結婚 1962 作詞を担当した「遠い日の歌」が第17回芸術祭奨励賞受賞 1981 1月23日急性心不全のため死去 享年59歳 谷内六郎は、1921年、東京、恵比寿に生まれました。 少年時代から新聞や雑誌にカットを投稿し、たびたび入選し ます。 一方、幼い頃から喘息で悩み、17歳で千葉県御宿町に、29歳で 国立熱海病院に療養生活を送ります。 御宿では古い街並や海岸をスケッチして後の制作の題材を作 り、熱海の闘病生活でも筆を離さず入院生活に取材した一連 の制作を続けました。 この間漫画連載、図案の内職、看板やチラシ描きで生活し、 1955、34歳で《いってしまった子》が第1回文藝春秋漫画賞を 受賞。 清新なデビューを飾ります。そして翌年『週刊新潮』の創刊 と同時に表紙絵を担当します。この『週刊新潮』の顔ともい える舞台で、谷内六郎は人々を魅了してやまない作品を発表 し続けました。 そして1981、急性心不全で逝去するまでの26年間、59歳まで 休むことはありませんでした。 心に残る幼い日の情景や、すがすがしい季節の折々をすくう ような表紙絵の総点数は、1336点に及びました。 絵本 『海と風船』 アートデイズ 2006 『四季・谷内六郎』 アートデイズ 2009 共著 著者 谷内六郎文・絵、代田昇 文、原田泰治 絵『海の子 山の子』信州くるまいすの会発行1975年国立国会図書館 《霧のミルクも来てた》1970(昭和45)年4月11日号 肉とありあわせの野菜をバターでいためて牛乳で煮込ん だスープは、おいしくていくらでも食べられることから 家族が「いくらでもスープ」と名付けました。 《ドックの祝日》1976(昭和51)年3月25日号 谷内六郎は、家族と共にたびたび横須賀を訪れ、1975年 には観音崎公園にほど近い場所にアトリエを構えました。 アトリエに滞在しながら『週刊新潮』の表紙絵を描いて いたようで、《ドックの祝日》もそうした表紙絵の一つ です。 谷内が表紙絵についてまとめたエッセイ「表紙の言葉」 には、本作について「浦賀ドックのわきにあるお寺のあ る山からスケッチしたものをもとにして描いた」ことと 、浦賀水道を出入りする様々な船に心惹かれている様子 が書かれています。 ガラスを割ってしまった息子に… 社交嫌いの谷内が家事・育児を担当し、達子さんが外に 交渉に出かける当時では珍しい家庭で、広美さんは育っ た。 「私には父が家にいるのが日常。弟の太郎も一緒に3人 で、同じ画用紙に絵を描いて遊んだ」と、懐かしそうに 語る。 「すべての子どもは天才である」と繰り返し訴えた谷内 の子育ては、優しさと驚きと楽しさに満ちていた。 決して叱らず、「間違ったことはしてはいけないよ」と 諭すだけ。 広美さんが誰かに嫌なことをされた時は「何でそんなこ としたんだろう、一緒に考えよう」と、とことん子ども の話に耳を傾けた。 弟がトイレの扉のガラスを割ってしまったことがあった。 達子さんが怒って手を上げると、谷内は「ちょっと待って」 プラスチックの下敷きに絵の具で色を付け、ガラス代わり に窓にはめ「さあ、これでいい」。 ステンドグラスのような美しい窓に、達子さんの怒りも 消えた。 ままごとの入浴で池にザブザブ まるで子どものような心を感じさせる逸話も。 広美さんと、真冬に庭でままごとをしていた時のこと。 谷内は、いきなり池にザブザブ入っていった。達子さんが 慌てて家から飛び出すと「(ままごとの中で)お風呂に入 るところだった」と答えたという。 優しくあること、何事も真剣に取り組むこと。 広美さんは「生きていくために必要なことや自分の頭で考 える大切さを、父との遊びの中で教わった」という。 今は広美さんも小学6年の娘の子育て中。 周囲には習い事などに追われる子も多いが、「今、この時 は一生の中のほんの一瞬。 塾や習い事をひとつやめて、もうちょっと子どもと遊んで あげたら…」と感じている。 週刊新潮の表紙に作品『ミシンの音』が掲載された時の 「表紙の言葉」には、こうある。 「ミシンを踏む音が汽車の音のリズムになってひびき、緑 の布地は広い畑となり、汽車は行けども行けども畑の平野 を走ります」…。子どもの頃、同じような空想をした人は 多いのでは。 「いつ見ても古くならない絵だと思う。今の人が父の絵を 見てどう思うのでしょうか」と、広美さんは笑顔を見せた。 |