東郷青児(1897-1978)紙などに多数使われ、昭和の美人画家として戦後一世 を風靡した。派手なパフォーマンスで二科展の宣伝に 尽力し、「二科会のドン」と呼ばれた。 独特のデフォルメを施され、柔らかな曲線と色調で描 かれた女性像などが有名だが、通俗的過ぎるとの見方 もある。後期には版画や彫刻も手掛けた。雑貨のデザイ ンや本の装釘も数多い。なお、彼の画風は弟子にあた る安食一雄に受け継がれている。ダンディで社交的で あったことから女性スキャンダルも少なくなく、愛人 のひとり、作家の宇野千代の「色ざんげ」は、東郷青児 をモデルにしている。 東郷青児年譜 1897 鹿児島県鹿児島市稲荷馬場町(現在の鹿児島市 稲荷町)に生まれる 届出は母親の私生児として神戸で出されている 幼少時に一家は東京に転居 余丁町小学校では林武と同級 1914 青山学院中等部を卒業、青児の名前の由来はこ こからきていると言われている このころ日本橋呉服町に竹久夢二が開いた「港 屋絵草紙店」に出入りし、下絵描きなどを手伝う 夢二の別居中の妻の岸たまきと懇ろとなり、た まきの家に宿泊中に夢二が現れ、野球バットを 持って青児を追いかけ回すこともあった(青児 がもとでのちに夢二とたまきは刃傷事件となる) 1915 山田耕筰の東京フィルハーモニー赤坂研究所の 一室で制作 日比谷美術館で初個展 この頃有島生馬を知り、以後師事 1916 第3回二科展に初出品した「パラソルさせる女」に より二科賞を受賞 1920 永野明代(はるよ)と結婚 1921 フランスに留学年(-1928) 国立高等美術学校に学ぶ この頃の作品には、ピカソらの影響が見られる 長男の志馬誕生 明代と志馬帰国 1924 ギャラリーラファイエット百貨店のニース支店 とパリ本店で装飾美術のデザイナーとして働く 1928 帰国 第15回二科展に留学中に描いた作品23点を出品 第1回昭和洋画奨励賞を受賞 西崎盈子を知り、初対面で結婚を申し込み、恋 仲となるも盈子の親の反対で一度別れる 中村修子と懇ろとなり結婚を約す一方、盈子と も関係を復活させる 1929 既婚のまま中村修子と結婚披露宴を挙げる 愛人の西崎盈子とメスで頸動脈を切り、ガス自 殺をはかったが、救出される 事件後、心中の取材に来た宇野千代と同棲を始 める 宇野の「色ざんげ」は東郷青児をモデルにした 主人公が自らの情死未遂事件を語るというもの で、のちに東郷青児は「この作品は最後の一行 まで僕の話したことだ」と語っている 宇野と新居を建て、志馬を引き取り、明代が志馬 を訪ねても会わせなかった 1930 ジャン・コクトーの「怖るべき子供たち」を翻訳、 白水社より刊行 1931 二科会入会 1933 情死未遂事件の相手、みつ子と関係復活し、宇野 千代と別れ、妻の明代とも離婚成立 みつ子と同棲を始める 1934 文士賭博事件により検挙される 1938 二科会に「九室会」が結成され、藤田嗣治と共に 顧問になる 1939 みつ子の妊娠がわかり、入籍 1940 みつ子との間に長女、東郷たまみ誕生 1951 歌舞伎座用の緞帳を制作 1957 岡本太郎と共に日活映画「誘惑」に特別出演 (西郷赤児役) 日本芸術院賞受賞 1960 日本芸術院会員 1961 二科会会長に就任 1969 フランス政府より芸術文化勲章オフィシエを授与 される 1970 勲三等旭日中綬章受章 1976 勲二等旭日重光章受章 東京・西新宿に東郷青児美術館(現SOMPO美術館) が開設 1978 4月25日第62回二科展(熊本県立美術館)出席の為 訪れていた熊本市にて、急性心不全のため死去 没後、正四位、文化功労者追贈 1980 妻みつ子没 1983 娘・たまみが艶福家であった父の性愛日記を公開 読売新聞の東郷番記者だった田中穣も伝記を出版 夢二の妻たまきとの関係や二科会での帝王ぶりなど に触れた 著書 「半未亡人」新太陽社 1948 「ロマンス・シート」出版東京 1952 「恋愛散歩」鱒書房 1955 「いろざんげ」河出書房 1956 「新男女百景」東西文明社 1958 「私の奇妙な友人たち」山王書房 1967 「東郷青児―他言無用」日本図書センター 1999 (1973刊「他言無用」の改題) 画集・評論等 「画集 東郷青児」 毎日新聞社、1971 「美術特集 東郷青児」 アサヒグラフ別冊1977春 朝日新聞社、1977 田中穣著「心淋しき巨人 東郷青児」新潮社 1983 「生誕100年記念 東郷青児展 図録」産経新聞社、1998 中島啓子編 「東郷青児作品集」 損保ジャパン東郷青児美術館、2003 野崎泉編 「東郷青児 蒼の詩 永遠の乙女たち」 河出書房新社、2009 翻訳 モーリス・デコブラ「恋愛株式会社」白水社、1931 ジャン・コクトー「恐るべき子供たち」角川書店1953 |