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上村松篁(1902−2000)

母・上村松園が日本画家であるという家庭環境と、小さい
ときから絵を描くのが好きだったことから、京都市立美
術工芸学校に入学、さらに同絵画専門学校へと進み、自然
に画家の道を志しました。
しかし、母は絵を描いているところを見せることも、絵の
手ほどきをすることも、全くなかったといいます。
そのかわりに,骨董屋こっとうやの持ち込んでくる古い
絵や、目録に載っている絵を眺めては「品があって、ええ
なあ」「品が悪いなあ」と松園が言うのを見聞きするこ
とにより,格調や品の良さをかぎ分ける力を身につけて
いきました。
幼い頃,絵を描くのと同じか,それ以上に松篁が好きだ
ったのが,金魚や小鳥を眺めることでした。
6歳の時には、鳥カゴから飛び出た文鳥が緑鮮やかな楓の
中にいるのを見て、その美しい光景に感動。
それが、花鳥の美に魅せられた最初の体験だったと語っ
ています。
このような画家が,花や鳥を生涯のモティーフとするこ
とは当然のことであり、そのため、母・松園とは違う道
を辿ることになります。
が、母が格調高い女性像を一筋に追い求めたように、松篁
もまた格調高い鳥の姿を一筋に追い求め,鳥の写生には
強いこだわりを持っており、「鳥の生活を理解しなければ
、鳥は描けない」と言い、鳥の観察のためにインドやオー
ストラリア、東南アジア等を旅行した。

また、奈良市郊外の自身のアトリエの敷地にも大規模な
禽舎(鳥小屋)を設け、1,000羽を超える鳥を飼って生涯
観察を続けていた。彼の死後、この禽舎は息子の上村淳
之が管理している。
とりかかると厄介なモチーフとしてウズラを挙げている。
円山派の流れに立つが、円山派の描いた鳥に対しては、
「十分、生きた鳥になりきっていない」と不満を言って
いた。
幼い頃の松篁には、松園は『二階の画室にこもって絵を
描いている』姿程度しか記憶になかった為、松園のこと
を「二階のお母さん」と呼んでいた。
松園が描いた作品で好きなものとして、「春苑」「天保歌妓」
の二つを挙げている。
美人画を描かなかった(『万葉の春』の様に例外もある)
松篁だが、松園の影響を受けていることを認めている。
哲学者の梅原猛は、『アート・トップ』1978年12月号に
掲載された小論で、「上村松篁の花鳥画は、鳥の世界に
移された一種の美人画である。」と言う様な主旨を述べ
ている。
また、「その根底には、幼少からの『人間嫌い』がある。」
とも述べている。

上村松篁年譜

1902 京都市中京区四条御幸町西入ルに生まれる
   (本名:信太郎)
   母は閨秀画家上村松園

1921 京都市立美術工芸学校絵画科卒業
   京都市立絵画専門学 校入学
   同時に西山翠嶂に師事、画塾青甲社入塾
   第3回帝展に「閑庭迎秋」を初出品初入選
   国画創作協会の会員で同校の助教授だった入江
   波光よりリアリズムの洗礼を受ける

1924 京都市立絵画専門学校卒業、研究科入学

1927 田中たね子と結婚

1929 第9回帝展に「蓮池群鴛図」を出品
   特選受賞

1930 京都市立絵画専門学校研究科修了

1933 長男淳(淳之)生まれる
   帝展推薦、無鑑査に推挙

1947 日展審査員に推挙

1948 日本画の在野団体、創造美術結成

1949 京都市立美術専門学校教授就任

1959 「星五位」芸術選奨文部大臣賞受賞

1967 「樹下幽禽」日本芸術院賞受賞

1970 「画業50年記念上村松篁展」開催

1972 京都市の文化功労者として顕彰

1973 京都府より美術工芸功労者顕彰
   勲三等端宝章受章

1974 新制作協会日本画部は新制作協会離脱
   創画会結成

1975 「松園生誕100年記念、上村松園・松篁
   ・淳之三代展」開催

1981 「彩管60年上村松篁自選展」開催
   日本芸術院会員に推挙

1983 「上村松篁回顧展」開催(京都市美術館)
   文化功労者として顕彰

1984 京都市名誉市民に推挙
   文化勲章受章

1990 「上村松園・松篁・淳之展」開催
   (高松市美術館)

1991 「米寿記念上村松篁展」開催
   (朝日新聞社主催)

1992 「上村松篁・魂の賛歌」開催

1994 上村松園・松篁・淳之の作品を収蔵する
   松柏美術館会館(奈良市)

2000 逝去。享年98歳

主な作品
『金魚』(1929年、松伯美術館蔵)
『星五位』(1958年、東京国立近代美術館蔵)
『万葉の春』(1970年、松伯美術館蔵)
『樹下幽禽』(1966年、日本芸術院蔵)
『閑鷺』(1977年、山種美術館蔵)

関連書
「湖の伝説 画家・三橋節子の愛と生」著・梅原猛、新潮社
 :上記の小論が掲載されている。
「芸術の世界 梅原猛対談集」著・梅原猛、講談社
 :松篁と梅原の対談が収録。

画集
「上村松篁画集 作品一九二一‐一九八〇」講談社
「花下鳥遊 上村松篁自選素描集」日本経済新聞社
「唳禽集 上村松篁 画集・写真集複製画」中央公論美術
「上村松篁写生集(花篇・鳥篇)」中央公論美術出版1973
素描集「上村松篁―わが身辺の鳥たち」日本放送出版協会1979
「上村松篁画集」講談社 1981)
現代日本画全集「上村松篁」(集英社 1982
「上村松篁画集」求龍堂 1990

花鳥画の第一人者として活躍した日本画家で文化勲章受章者の
上村松篁は3月11日午前0時3分、心不全のため京都市内の病院
で死去した。享年98歳。
1902年11月4日、京都市中京区四条御幸町西入ルに、美人画で
知られた女流日本画家、上村松園の長男として生まれる。
本名信太郎。画家の母のもとで幼少より画に親しむ。動物好き
で花や虫、鳥を好んで描き、その後も花鳥画への道を歩むこと
になるが、終生貫き通す格調の高さは母譲りのものであった。
1915京都市立美術工芸学校絵画科に入学、都路華香、西村五雲ら
に学び、特待生となる。
1921卒業後、京都市立絵画専門学校に入学し、国画創作協会の
会員で同校の助教授だった入江波光よりリアリズムの洗礼を受
ける。
また入学と同時に西山翠嶂の画塾に入った。同年第3回帝展に
「閑庭迎秋」が初入選、以後帝展、および青甲社と名乗るよう
になった翠嶂画塾の塾展である青甲社展に出品し、1924第5回
帝展に克明なリアリズムの描写による「椿の図」を出品する。
同年京都市立絵画専門学校を卒業後、同校研究科に進む。
1928第9回帝展で、古典的な画題をアレンジした「蓮池群鴦図」
が特選を受賞した。
1930、研究科を修了し、京都市立美術工芸学校講師、1936に
は京都市立絵画専門学校助教授となる。
1933帝展無鑑査となり、43年第6回新文展で委員をつとめ、また
1936池田遥邨、徳岡神泉、山口華楊らと水明会を結成した。
この時期、アルタミラの洞窟壁画や古代エジプトの浮彫など、
美術史上の古典をふまえた動物画や人物画を試みている。
戦後1947第3回日展に再び出品、審査員も務めるが、翌年日本画
の革新を目指して東京の山本丘人、吉岡堅二、京都の向井久万、
奥村厚一らとともに日展を離れて創造美術を結成、世界性に立
脚する日本画の創造を標榜する同団体において、抒情性よりも
構成的な美を志向する花鳥画を生み出していく。
1949京都市立美術専門学校教授となり、翌年より京都市立美術
大学助教授を兼任、1953同大学教授となった。
創造美術は1951新制作派協会と合流して新制作協会日本画部と
なったため、以後同会に出品。
1956第20回展「草月八月」、57年第21回展「桃実」などを出品し
1958第22回展出品作「星五位」により翌年芸術選奨文部大臣賞
を受賞した。
その後もインドや東南アジアでの熱帯花鳥写生で画嚢を肥やし
1959第23回「鷭」、1960第24回「熱帯睡蓮」1962第26回「鳩の庭」
1964春季展「ハイビスカスとカーデナル」、1965第29回「鴛鴦」
など、明るい色彩を用いた品格ある花鳥画を発表。
1966第30回「樹下幽禽」により、翌1967日本芸術院賞を受賞した。
1968京都市立美術大学を退官、同大名誉教授となる。
同年皇居新宮殿に屏風「日本の花・日本の鳥」を描く。
またこの年から翌年にかけて「サンデー毎日」に連載された井上
靖の小説「額田女王」の挿絵を担当、
1970近鉄奈良駅の歴史教室壁画「万葉の春」では大画面の歴
史人物画に取り組んでいる。
1972京都市文化功労者、1973京都府美術工芸功労者となる。
1974新制作協会日本画部は同協会を離脱し創画会を結成、以
後同会に出品する。
1981日本芸術院会員、1983文化功労者となり、1984文化勲章を
受章同年には京都市名誉市民の称号も受けている。
没後の2002には、京都市美術館にて回顧展が開催された。

著書
「鳥語抄」講談社 1985
「春花秋鳥」日本経済新聞社 1986
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