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モーリス ユトリロ

Maurice Utrillo(1883-1955)

ユトリロは、エコール・ド・パリの画家のなかでは珍しく生粋
のフランス人。
彼の作品のほとんどは風景画、それも、小路、教会、運河などの身
近なパリの風景を描いたものである。ありふれた街の風景を描
きながら、その画面は不思議な詩情と静謐さに満ちている。特に
、壁などの色に用いられた独特の白が印象的である。第二次世界
大戦後まで余命を保つが、作品は、
後に「白の時代」といわれる、アルコールに溺れていた初期の
ものの方が一般に評価が高い。パリ郊外のサノワにはモーリス
・ユトリロ美術館がある。またモンマルトルにある墓には献花
が絶えない。

1883年12月26日、パリ・モンマルトルの丘の麓に位置するポト
ー街8番地にて、午後1時頃シュザンヌ・ヴァラドンの私生児と
して生まれ、モーリスと名付けられる。彼が生まれた時、母親は
針子をしながらも既に画家として活動していた。そのため、息子
モーリスは身体が弱く情緒不安定であったにもかかわらずシュ
ザンヌは息子の世話を母親マドレーヌに任せた。2歳の頃モー
リスはてんかんの発作に見舞われ、その後も後遺症が残った。
就学しても学校に馴染めず、公立学校から別の学校に転校して
いる。この頃、母ヴァラドンは画家として成功しており、息子
モーリスをラバ街のフレスネルという私立学校に入れている。
7歳の時、スペイン人の画家・美術評論家ミゲル・ウトリリョ・イ
・モルリウス(Miquel Utrillo)が、モーリスを自分の息子と
して認知し、「モーリス・ヴァラドン」は「モーリス・ユトリロ」
に改姓された。また、ヴァラドンはそのミゲルを通じてエリッ
ク・サティと愛人関係を結ぶが、数か月でその関係も終わる。
モーリス・ユトリロが8歳のときヴァラドンは息子を精神病の
ため病院へ連れて行く。1894年半ばからヴァラドンは布地商で
あるポール・ムージスと同棲し、11月にコルトー街2-4番地に引
っ越す。ここでヴァラドンは自宅にアトリエを構え、絵画に専念
するようになる。ムージスのおかげでユトリロとヴァラドンは
安定した生活を得る。1896年にムージスとヴァラドンは18区の
役所にて結婚。またムージスの財力によりユトリロをピエール
フィットのモランという私立小学校の寄宿舎に預け、この町の
サン=ドニ通り18番地に家を借り、毎週日曜日にヴァラドンと
ムージスはモーリス・ユトリロの元を訪れた。オーベルヴィリエ
で初等教育の修了証書を得た。
その後パリ市内トリュデーヌ大通りのロラン中学第五学級に入
学し、ピエールフィットの祖母の家から通った。ユトリロは優秀
な成績を収めていたが、最高学年に進んだ際問題を多々起こし、
中学を退学した。

1900ムージスのお陰で臨時雇いの外交員の職を得るが、4か月
しか持たなかった。また他の仕事もユトリロの気難しさと激情、
そしてアルコール依存症の悪影響によって暴力が増え、一家は
1901にモンマニーとピエールフィットに近いサルセルに転居せ
ざるを得なくなった。しかし引っ越した後もユトリロはアルコ
ール依存が悪化した。この頃ムージスがモンマニーのパンソン
の丘の上に小さなブドウ畑を手に入れ、そこに4階建ての館を建
てた。1902ユトリロはモンマルトルの丘の上にあるコルトー街
2番地に住み着く。この頃から水彩画を描く練習を始めた。エト
ランジェ医師はヴァラドンに彼が興味を持ったことはやりたい
ようにさせることを勧めた。ユトリロは最初から真剣にやろう
とはしなかったが、一家でモンマニーに滞在した際、最初の風景
画を制作した。しかしアルコール依存症は酷く、彼の精神は蝕
まれていった。1904の初頭にポール・ムージスに連れられて、
パリのサン=タンヌ精神病院に入院した。これがきっかけでヴ
ァラドンとムージスの間に溝が生まれ、後の1909二人は破局を
迎える。5月に症状の改善が見られたユトリロはモンマニーに戻
り、周囲を驚かせるほど穏やかであったという。

病院をでたユトリロはこの頃、モンマニー周辺のモンマルトル
で絵を描き始め、自分の進路を絵画に定めた。ヴァラドンも息子
の絵に助言をしたが、基本的にユトリロは独学で絵を描いた。
当時の技法は小さなボードの上にピサロやシスレーが用いた印
象派独特の点描技法で厚く絵具を置くものだった。デッサンに
ついてはまだ、特別な構図を追求しなかった。この頃の作品に
「モンマニー風景」(1905、リヨン美術館所蔵)と「屋根」(1906、
国立近代美術館所蔵)がある。
同時期にユトリロは2歳年下のアンドレ・ユッテルと交流し意気
投合する。

ユトリロとユッテルはモンマルトルの丘に絵を描きに行ったり
、共に飲みに行ったりしていた。この頃ポール・ムージスとの
仲が冷めつつあったヴァラドンは、ユトリロの仲介でユッテル
と知り合う。ユトリロは画家であることによって肉体的にも精
神的にも監禁状態から解放されていた。1907-1908にかけての
彼の絵画はシスレーの回顧展の影響を受けつつ、それ以上に画
面の奥行きの追及や堅牢さを獲得した線、深められたデッサン
などの独自の構図を築いた。絵画は厚塗りのままだったが、白か
らマチエールが生まれた。一方で当時の彼には画商はついてお
らず、自身も自分の作品を売ろうとは考えていなかった。

1909の春、翌年モーリスの画商となったルイ・リボートが最初
の買い手として現れる。この頃がモーリス・ユトリロの画家と
しての絶頂期として高く評価されている。

これ以前にもモーリスは売ってくれる者であれば誰にでも絵画
を売り渡したが、画商としてではなかった。リボートはクロヴィ
ス・サゴの画廊を訪れ、ユトリロの作品に目を留め、ヴァラドン
に絵画の売買が可能か否か問い合わせた。
この時代はユトリロが初期のパリとランスの大聖堂を描いてい
た時代であった。リボートは委託販売をしていたサゴに手数料
を払うよりも、シュザンヌと直接取引をしたがった。1909ユト
リロはサロン・ドートンヌに2点出品した。これがユトリロの作
品が世に出た初めての展覧会であった。このうち一つが彼の代
表作の一つであるノートルダム橋であった。同年ヴァラドン=
ムージス夫妻が破局を迎えた。ユッテルとヴァラドンはムージ
スのアパルトマンの真向かいに位置するコルトー街12番地の
アトリエを独占したが、年内にユトリロとクロー婆さんと共に
モンマニーのパンソンの丘の館に移住した。ムージスはこの頃
離婚の手続きを開始し、ヴァラドンの一切を拒絶した。

そのためモンマニーに移り住んだ一家は経済問題に直面するこ
ととなる。ヴァラドンもユトリロもユッテルも収入が全くなか
った。一時期はユトリロを石膏採掘場に労働に行かせたが、公衆
の面前で大暴れし警察沙汰になり終わった。ユッテルはユトリ
ロの冒した失態の仲裁を務めた。また時間があったときはユト
リロは自身の描いた絵を売ろうとした。ルイ・リボードはユトリ
ロの才能を理解していた。モンマルトルの作品倉庫で半ダース
ほどの作品の購入、転売に成功し利益を得た。1911ヴァラドン
側の過失としてポール・ムージスとシュザンヌ・ヴァラドンとの
間の離婚がセーヌ県裁判所控訴院で確定したにもかかわらず、
ヴァラドンはパンソンの丘の館とコルトー街のアトリエを保持
した。一方ユトリロはアルコールの影響を受け続け、泥酔した
際にそのこと自体と猥褻の罪で起訴され、罰金刑を受けている。
この年の秋にユトリロは、セザール・ゲイという元警察官と知
り合う。彼は「カス=クルート」という酒場を開くと同時にマ
リー・ヴィズィエが経営していた「ベル・ガブリエル」という
店を所有していた。ユトリロはそこに出入りし飲食するだけで
はなく、二人は彼に店の奥で絵を描くことを許した。完成した
絵はゲイが自分のカフェのホールに掛け、それが好評を博し、
芸術家としてモンマルトル一帯に認知されるようになった。

1912にリボードはユトリロの絵画の価値が急上昇したため専属
契約を交わし、ささやかな規則的報酬と引き換えにした。これ
は一家の経済的安定をもたらしたが、同時にユッテルが自身の
道を諦め、ヴァラドンと共にユトリロの絵画に利益を見出そう
とする。そのためリボードとヴァラドンの対立が発生した。4月
にフランソワ・ジュルダンの計らいでユトリロはドリュエ画廊
にて6点の作品を展示した。リボードはユトリロが利益を彼にも
たらしたことで、ユトリロの制作を注文して作らせ制御下にお
こうとした。ヴァラドンはこれに対抗しようとしたがうまくは
いかなかった。4月末から5月の初めにかけてユトリロの健康状
態は悪化した。
アドルフ・タバランはリボードのもとを訪れ、責任を持って芸
術家を病院に入れるように促したが、リボードはそれを拒否し
た。そのためリボードとヴァラドンの関係がさらに悪化し、最
終的にリボードはモーリスの入院費用を支払うこととなった。
サノワのルヴェルテガのもとに受け入れられ、すぐに健康を回
復した。入院中ユトリロは、精神障害者を一時的に居住者として
扱う病院の「オープン=ドア」システムのおかげで病院を出る
ことが許された。彼は芸術家だったためルヴェルテガ博士は絵
を描くことを勧め、ユトリロは多くの絵を描いた。治療は効果的
で、7月末に一家の友人の提案でブルターニュに行くことを医師
は認めた。ルイ・リボードはそれを知ると契約内容をユトリロ
に迫った。ユトリロは提案者である友人リッシュモン・ショドワ
、ヴァラドン、ユッテルと共にウェサン島で2ヶ月以上休暇を過
ごした。そこでもユトリロは絵を描いたが、リボードの提案で
ある「1ヶ月に6枚以上描かない」のため、12枚以下の風景およ
び2点の小さなカルトンしか描かなかった。ヴァラドンは息子の
作品のサインを偽造したが、買い手も気づいていた。10月末に
全員がパリに戻った。

ユトリロはサロン・ドートンヌに参加し、「サノワの通り」と
「コンケの通り」の2点を出品した。しかし12月に再びユトリロの
健康状態が悪化し、サノワの診療所に再入院した。
その結果、1913の大部分をここで過ごすこととなる。一方で、
サロン・デ・ザルティスト・アンデパンダンにユトリロの作品は
出品され、ヴァラドンとユッテルは自分たちも各々で展覧会に
参加する一方で、ユトリロの発表の面倒も見た。ユトリロの作品
をほぼ独占したリボードは、8区のリシュバンス街11番地にある
ウジェーヌ・ブロ画廊でユトリロ最初の個展を開催した。この
展覧会では、1912から1913までに制作された31点を1913年5
月26日から6月1日まで展示した。しかしこの展示会は失敗し、
ユトリロが多作であることが原因だと考えたリボードは、月6点
以上描かないようヴァラドンに手紙を送った。日にちは遅れた
が、10月にユトリロ、ヴァラドン、ユッテルはコルシカ島に出
発した。そこでコルシカ高地のベルゴデールに滞在し、20点ほ
どの作品を描き上げた。それらはムラト教会、ピエディクロー
チェ修道院、チント山腹の修道院、コルトの通りなどを描いた
ものだった。

コルシカ島から帰った直後、ユトリロはヴァラドンを通じて画
商のマルセイユと知り合った。マルセイユはリボードの物と比
較してユトリロに好条件な契約を提案し、それはすぐに成立た。
ユトリロはこの収入でモンマルトルの丘にて酒場を回ったが、
その結果再度ルヴェルテガ博士の診療所で治療を受けることと
なった。ユトリロは1914の前半をサノワで過ごし、絵を描き続
けた。また買い手も見つかった。3月2日には「熊の皮」(La Peau
de l'Ours)という競売で、アンリ・ボードワンによって競売に
かけられた。リボードはこの時またユトリロたちとの関係を取
り戻そうとしたが、かつてとは違いユトリロが外に出ないこと
を望むようになった。6月15日、ドルーはユトリロの作品をホテ
ル・ドルオに出品するが失敗し、10点もの作品を買い戻すこと
となった。この結果と今まで行った過度の干渉によりリボード
とヴァラドンとユッテルとの間で決定的な決裂が生まれ、契約
が破棄された。この結果ユトリロは安定した収入を失った。彼
はルヴェルテガ博士の診療所を出た後軍隊に志願したが、8月29
日医学的理由で兵役を免除された。9月1日ヴァラドンとユッテ
ルは結婚したが、その月の末にユッテルは従軍した。ユトリロ
はまた酒場に入り浸るようになった。この「白の時代」に、ユト
リロは数百点に及ぶ作品を残している。

この10年間でユトリロは、かつて「白の時代」に使われた光と
明暗法の調和によって生み出されるコンポジションの統一感か
ら、硬く乾いた黒い輪郭線で絵画空間を構成したフォルムの幾
何学化によってモチーフ間のバランスを保つ「色彩の時代」へ
と移行した。

ユトリロは1914の末に暴行と器物損壊で逮捕され、18区の警察
に連行された。その後サン=タンヌ精神病院での3週間の拘束の
後に、ヴィルジュイフの精神病院に移送された。1915年1月18日
に退院したが、その直後軍部によってアルジャンタンに召集さ
れた。しかし1月20日に医学的検査の結果「精神病」によって兵役
免除となった。ユトリロはセザール・ゲイの店の奥で色彩の調
和を探求した。

1915年6月20日、クローが85歳で死去した。ユトリロは一年中絵
を描くと共に酒を飲み、騒ぎを起こしたため、休暇中のユッテ
ルに連れられてヴィルジュイフの病院に12月27日入院した。そ
こでユトリロは10ヶ月以上の監禁生活を送り、1916年11月8日に
コラン医師により退院を許された。ヴァラドンは彼女の絵のモ
デルをしていたガビーという女性とユトリロを結婚させようと
したが、この望みは叶わなかった。この時期ユトリロの作品は
より評価されるようになった。1917のベルナイム=ジュヌの画
廊で開かれたグループ展にて、彼の作品は数枚出品された。ドル
ーはリボードに代わりユトリロの画商の筆頭となり、ポワソニ
ュ街70番地の一室を彼に貸し与えた。

モーリス ユトリロ年譜

1833 12月26日パリ・モンマルトルの丘の麓に位置するポトー
   街8でシュザンヌ・ヴァラドンの私生児として生まれる

1885 2歳の頃ユトリロは癲癇の発作に見舞われ、後遺症が残る

1891 ジャーナリスト、ミゲル・ユトリロ・イ・モルリウスが
   モーリス・ヴァラドンを息子として認知する
   ヴァラドンは息子を精神病のため病院へ連れて行く

1894 ヴァラドンは布地商であるポール・ムジスと同棲

1895 オベルヴィリエの小学校を優秀な成績で卒業する

1896 ムジスとヴァラドンは18区の役所にて結婚
   ロラン中学に入学するもそのときすでに飲酒癖があった

1900 ムジスのお陰で臨時雇いの外交員の職を得るが、4ヶ月
   で退職
   アルコール依存症が進み暴力を振うようになる

1901 モンマニーとピエールフィットに近いサルセルに転居
   引っ越した後もユトリロはアルコール依存が悪化した
   アルコール中毒の治療のために、ユトリロに絵筆を取
   らせる

1902 モンマルトルの丘にあるコルトー街2番地に住み着く
   この頃から水彩画を描く練習を始めた
   一家でモンマニーに滞在した際、最初の風景画を制作
   した
   しかしアルコール依存症は酷く、彼の精神は蝕まれて
   いった

1903 サン・タンヌ精神病院で初めての自殺未遂を冒す

1904 年初ムジスに連れられて、パリのサン・タンヌ精神病院
   に入院
   5月には症状の改善が見られ、ユトリロはモンマニーに
   戻る
   退院したユトリロはモンマニー周辺のモンマルトルで
   絵を描き始める

1905 モンマニーとパリのセーヌ河岸の風景を多く描く

1909 サロン・ドートンヌに「ポン・ノートル・ダム」他一点
   を出品

1910 モーリスの画商となるルイ・リボートが最初の買手と
   して現れる

1911 公道で通行人に性器を露出した」として恥辱罪で逮捕
   される

1912 サノワのルヴェルテガ博士の病院に入院する
   以後、入退院を繰り返しながらも作品を描き続ける
   画商リボードと専属契約を結ぶ
   ドリュエ画廊にて6点の作品を展示
   ブルタニューやコルシカの旅行は、自然の美しさが彼
   を元気づける
   しかしパリに戻ると健康状態が悪化し、サノワの診療
   所に再入院

1913 ウジェーヌ・ブロ画廊で最初の個展を開催
   (5月26日〜6月1日)
   展覧会では1912から1913までに制作された31点を展示
   画商のマルセイユと専属を結ぶ契約

1914 ホテル・ドゥルオーでの競売会でユトリロの作品が初
   めて高値で売れる
   暴行と器物損壊で逮捕され、18区の警察に連行される
   その後サン・タンヌ精神病院での3週間の拘束の後に
   ヴィルジュイフの精神病院に移送、翌1月退院

1917 ベルナイム・ジュヌの画廊で開かれたグループ展に数
   枚出品
   ドルーはリボードに代わりユトリロの画商筆頭となる

1918 酒のために心身をそこね、レピクピュスの病院へ入院
   モジリアーニに出会う

1921 個展(モーリス・ユトリロ展)開催
   (ギャルリー・ベルト・ヴェイユ)

1923 母との二人展や個展を開催

1925 セルゲイ・ディアギレフのロシア・バレエダンのため
   に舞台装飾をする

1925 レジオン・ドヌール勲章シュヴァリエ章と教育功労勲
   章を授与される

  1935 銀行家の未亡人12歳年上のリュシーポーウェルと結婚

  1937 パリ郊外のル・ヴェズィネに別荘を購入
   ポールペトリデスがユトリロの作品を扱う画商になる

1938 母のシュザンヌ・ヴァラドン死去

1948 サロン・ドートンヌでユトリロの回顧展が開かれる

1951 マルケやデュフィとともにサロンデ・チュレリにモン
   マルト風景を出品

1955 「パリ・キャピタル」のために10枚のリトグラフを制作
   パリ市から金メダルを授与される
   静養のため南仏のダックス旅行中、風邪をこじらせて
   急逝する
   享年71歳 11月5日死去

  「モンマニーの時代」(1904〜08)
「白の時代」(09〜14)
「色彩の時代」(20〜55)

代表作
ラパン・アジル(1910)(パリ、ポンピドゥー・センター)
コタンの袋小路(1911)(パリ、ポンピドゥー・センター)
パリのサント=マルグリート教会(1911)
 (ドイツ、マンハイム市立美術館)
ラヴィニャン街の眺め(1911-15)
 (ニューヨーク、メトロポリタン美術館)
サン=セヴランの聖堂(1912)
 (ワシントン、ナショナル・ギャラリー)
パリ郊外(1910) (倉敷、大原美術館)
ノルヴァン通(1910) (名古屋、名古屋市美術館)
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