アンディ ウォーホルAndy Warhol
アメリカの画家・版画家・芸術家でポップアートの旗手。本名は
アンドリュー・ウォーホラ(Andrew Warhola)。銀髪のカツラ
をトレードマークとし、ロックバンドのプロデュースや映画制
作なども手掛けたマルチ・アーティスト。
チェコスロバキア共和国ゼムプリーン県(現スロバキア共和国
プレショウ県)ストロプコウ郡ミコー村(現ミコヴァー村)から
移民したルシン人の父オンドレイ(アンドレイ)と母ユーリア(
ジュリア)の三男として、米ペンシルベニア州ピッツバーグで生
まれる。移民前の元の姓はヴァルホラ(スロバキア語:Varchola)
。2人の兄(ポール、ジョン)がいた。ルシン人の両親は敬虔な
ルテニア東方典礼カトリック教徒で、彼自身も同様に育ち生涯
を通じ教会へ通った。
体は虚弱で、肌は白く日光アレルギーであり、赤い鼻をしていた
。早い時期から芸術の才能を現した。肉体労働者だった父アン
ドレイは1942、アンディが14歳のときに死去、その後は母のジ
ュリア一に育てられた。アルバイトをし地元の高校に通う。カー
ネギー工科大学(現在のカーネギーメロン大学)に進学し広告芸
術を学び1949に卒業。
1950代、大学卒業後はニューヨークへ移り「ヴォーグ」や「ハーパ
ース・バザー」など雑誌の広告やイラストで知られた。1952には
新聞広告美術の部門で「アート・ディレクターズ・クラブ賞」を受
賞し、商業デザイナー・イラストレーターとして成功するが、同
時に注文主の要望に応えイラストの修正に追われ、私生活では
対人関係の痛手を受けるなど苦悩の時期でもあった。
彼は後に、ただ正確に映すテレビ映像のように内面を捨て表層
を追うことに徹する道を選ぶこととなる。この間に、線画にの
せたインクを紙に転写する「ブロッテド・ライン (blotted line
)」という大量印刷に向いた手法を発明する。
1960、彼はイラストレーションの世界を捨て、ファインアートの
世界へ移る。「バットマン」、「ディック・トレイシー」、「スーパー
マン」など、コミックをモチーフに一連の作品を制作するが、契
約していたレオ・キャステリギャラリーで、同様にアメリカン・
コミックをモチーフに一世を風靡したロイ・リキテンスタイン
のポップイラストレーション作品に触れて以降、この主題から
は手を引いてしまった。当時アメリカは目覚ましい経済発展の
さなかにあった。
1961、身近にあったキャンベル・スープの缶やドル紙幣をモチー
フにした作品を描く。ポップアートの誕生である。1962シルクス
クリーンプリントを用いて作品を量産するようになる。モチー
フにも大衆的で話題に富んだものを選んでいた。マリリン・モン
ローの突然の死にあたって、彼はすぐさま映画「ナイアガラ」の
スチル写真からモンローの胸から上の肖像を切り出し、「マリリ
ンのディスパッチ」等、以後これを色違いにして大量生産しつづ
けた。ジェット機事故、自動車事故、災害、惨事などの新聞を
騒がせる報道写真も使用した。
1964からはニューヨークにファクトリー(The Factory、工場の
意)と呼ばれるスタジオを構える。ファクトリーはアルミフォイ
ルと銀色の絵具で覆われた空間であり、あたかも工場で大量生
産するかのように作品を制作することをイメージして造られた
彼はここでアート・ワーカー(art worker:芸術労働者の意)を雇
い、シルクスクリーンプリント、靴、映画等どの作品を制作する。
ファクトリーはミックジャガー(ローリングストーンズ)ルー・
リード(ヴェルヴェット・アンダーグラウンド)トルーマンカ
ポーティ(作家)、イーディー・セジウィック(モデル)などアー
ティストの集まる場となる。
1965「ヴェルヴェット・アンダーグラウンド」(The Velvet Under
ground; 以下 V.U.と略)のデビューアルバムのプロデュースを
行う。ウォーホルはV.U.の演奏を聴き共作を申し込み、女優兼モ
デルのニコを引き合わせ加入させる。1967発売の彼らのデビュ
ー作「The Velvet Underground & Nico」(ヴェルヴェット・アンダ
ーグラウンド・アンド・ニコ)では、プロデュースとジャケットデ
ザインを手掛けた。シルクスクリーンによる「バナナ」を描いた
レコードジャケットは有名となった。前衛的音楽のためアルバ
ムはあまり売れなかったが、後に再評価された。ウォーホルはV.
U.の楽曲を映画のサウンドトラックとしても用いた。セカンド
アルバム制作の頃にはウォーホルとの関係も終わる。彼らとの
関係は、映画「ルー・リード:ロックン・ロール・ハート/Lou Reed:
Rock and Roll Heart」に描かれている。またウォーホルの死後
、メンバーのリードとケイルは再
結成し「Songs For Drella」(1990)という追悼アルバムを
作成した(Drellaはドラキュラとシンデレラを足した造
語であり、彼らによるウォーホルの印象を表したという)。
芸術の世界の外では、アンディ・ウォーホルはこの時期に名声や
有名人について語った言葉 ("15 minutes of fame") で有名に
なった。1968にウォーホルは「未来には誰でも15分間は世界的な
有名人になれるだろう」と述べた。1970代末に彼は「60年代の
予言はついに現実になった」と話したが、マスコミからこの言葉
について毎回尋ねられることにうんざりし、このフレーズを「1
5分で誰でも有名人になれるだろう(In 15 minutes everybody
will be famous.)」と言い換え、以後回答を断るようになった。
1968年6月3日ウォーホルはラディカル・フェミニズム団体「全男
性抹殺団(S.C.U.M./Society for Cutting Up Men)」のメンバー
だったヴァレリー・ソラナス(Valerie Solanas)に銃撃される。
ソラナスはファクトリーの常連であり、ウォーホルに自作の映
画脚本を渡したり、彼の映画に出演したことがあった。
三発発射された弾丸のうち、最初の二発は外れ、三発目が左肺、
脾臓、胃、肝臓を貫通した。彼は重体となるが、一命をとりとめた
。ソラナスは逮捕の上裁判にかけられたが、事件時に統合失調
症を患っていたと診断され、「危害を加える明確な意図はなかっ
た」として3年間精神病院に入院した。ソラナスは退院後もフェ
ミニズムの活動を続けたが、1988に肺炎により52歳で死去した。
この事件は「アンディ・ウォーホルを撃った女/I Shot Andy War
hol』として1995に映画化された。
1970〜1980年代は社交界から依頼を受け、ポートレイトのシル
クスクリーンプリントを多数制作する。1970は「ライフ」誌によ
ってビートルズとともに「1960年代にもっとも影響力のあった
人物」として選ばれる。1972、ニクソンの訪中にあわせて毛沢
東のポートレイトを制作した。同年、母がピッツバーグで死去。
世界中で個展を開催するようになる。1974、初来日。
1982〜86年にかけては災害や神話をモチーフとした一連の作品
を作成する。最後の作品は1986のレーニンのポートレイトなど。
このレーニンのポートレイトは後にロシアの政商で有名なボリ
ス・ベレゾフスキーに渡ることになる。
1983〜84にかけて、日本のTDKビデオカセットテープのCMに出演
「イマ人を刺激する」と題して、ブラウン管にカラーバー映像が
映されたテレビを右肩に持ちながら「アカ、ミドォリィ、アオゥ、
グンジョウイロゥ…キデイィ(キレイ)」とたどたどしい日本語
を発するだけであったが、視聴者に強烈なインパクトを与えた。
拡大したカラーバー映像を背景に、トライアングルを持ち、猫の
格好をした女性が寄り添うバージョンや、シンバルを鳴らし「オ
ト、オト、オト、オトーサァン!」と言うバージョンもあった。
1984にはカーズのアルバム「ハートビート・シティ」からのシン
グル「Hello Again(ハロー・ゲイン)」のミュージック・ビデオを
手掛けたが、内容が過激なため放送禁止になってしまった。
1987、ニューヨーク・マンハッタンのクラブ「トンネル」で行われ
た、佐藤孝信の「アーストン・ボラージュ」のショーにモデルとし
てマイルス・デイヴィスとともに参加。しかし直前に体調を悪
くしイタリアから帰国したばかりで、これが最後の人前に出た
姿となった。
2月21日、ニューヨークのコーネル医療センターで胆嚢手術を受
けるも翌22日、容態が急変し心臓発作で死去。享年58歳。生涯
独身だった。ピッツバーグの洗礼者聖ヨハネ・カトリック共同
墓地に埋葬されている。
スロバキアの首都、ブラチスラヴァにあるウォーホルの像派手
な色彩で同じ図版を大量に生産できるシルクスクリーンの技法
を用い、スターのイメージや商品、ドル記号など、アメリカ社会
に流布する軽薄なシンボルを作品化した。古典芸術やモダニズ
ムなどとは異なり、その絵柄は豊かなアメリカ社会を体現する
明快なポップアート、商業絵画としても人気を博した。しかし
、そこにはアメリカの資本主義や大衆文化のもつ大量消費、非人
間性陳腐さ、空虚さが表現されていると見ることもできる。
普遍性を求めた彼の作品は、彼自身や大衆が日々接している資
本主義やマス・メディアとも関連しており、また事故や死のイ
メージも描かれた。
彼は自身について聞かれた際、「僕を知りたければ作品の表面だ
けを見てください。裏側には何もありません」と、徹底し「芸術
家の内面」をなくし表面的であろうと努めた。彼は有名なものへ
の愛情を隠さず、スターや政治家や事故、流行品をしばしば画題
に取り上げ、それが有名で皆も自分も大好きだからだと理由を
述べた。また彼自身がアメリカの有名人物になってからも、ペ
ースを乱すことなく有名人を演じ、作品を制作し続けることを
理想とした。
初期にはアクリル絵具などでキャンバスに描いていたが1960代
以降は版画のシルクスクリーンを多用している。孔版印刷であ
るシルクスクリーンの原理は平たくいえば「プリントゴッコ」
のようなもので、作家が直接印刷に携わらなくとも制作できる
量産に適した手法である。彼は機械で生産するようにシルクス
クリーン作品を刷るアトリエ「ファクトリー」を設け多くの若
者を雇い制作にあたらせた。一方、同じ版を利用し意図的にプ
リントをずらしたり、インクをはみ出させた。
「Interview」は、ウォーホルが企画し立ち上げた、インタビュー
のみで構成される月刊グラフ誌である。1969秋創刊。縦16イン
チ・横10.5インチの大きな表紙写真に様々な分野の話題の人物
を載せた。
ウォーホルは死後の財産について、家族に残すいくばくかのも
のを除いた遺産の大半によって「視覚芸術の進歩」を目的とした
財団の設立を希望しており、その意思に基づいて1987にアンデ
ィ・ウォーホル視覚芸術財団(The Andy Warhol Foundation for
the Visual Arts)が設立された。設立時に、財団はウォーホル
作品の著作権および商標を取得した。財団はウォーホル作品の
著作権を元にさまざまな企業とコラボを行って財源を確保し、
視覚芸術研究や芸術家などへの支援と助成を行っている。
1991スロバキア共和国文化省とアンディ・ウォーホル美術財団
は、両親の出身地ミコヴァー村に近い東部スロバキアのメジラ
ボルツェ市にアンディ・ウォーホル現代美術館(Muzeum modern
eho umenia Andyho Warhola)を開館した。社会主義時代の1970
代からアンディ・ウォーホルの作品に強い関心を持っていたメ
ジラボルツェ市の民族工芸学校教師の調べにより、両親がミコ
ヴァー村出身で、村には親戚もいることが判明。これを受けて
アンディが没した1987に2番目の兄、ジョン・ウォーホラ(2010年
没)がミコヴァー村を訪れたことが発端となり、民主化後に実現
した。旧郵便局施設を改装した建物には作品160点を常設展示。
一家の由来に関する史料も展示されている。2001以降は地元プ
レショウ県政府が運営している。人口わずか約150人の小村であ
るミコヴァー村では、ルシン人文化行事として1992から民間主
催の民族音楽・ロック音楽イベント「アンディ・ウォーホル記念
ミコウスキー・フェスティバル」が毎年夏に開催されている。
また村域の出入口標識近くには、表にアンディ・ウォーホルの
肖像画をあしらった「ようこそアンディ・ウォーホルの両親の
一族ミコヴァー村へ」(Vita vas obec Mikova,rodisko rodi?ov
Andy Worhola)、にキャンベルスープ缶の絵をあしらった「さよ
うなら、アンディ・ウォーホルの両親の一族より」((Dovidenia
v rodisku rodiov Andy Worhola)という手描きの看板が設け
られている。
1994にはアンディ・ウォーホル本人の出身地であるピッツバー
グ市に、アンディ・ウォーホル美術館(The Andy Warhol Museum)
が開館した。カーネギー財団とアンディ・ウォーホル美術財団な
どが、産業用倉庫として使われていたノース・ショア地区の7階
建てのビルを改装して開いたもので、ピッツバーグ市内の「カー
ネギー美術4館」の1つ。絵画や印刷作品のほか、映像作品なども
合わせ1万点以上の作品を所蔵していて、1人の芸術家に特化し
た美術館としてはアメリカ最大である。美術館は2013、分館を
2017にニューヨークに開設すると発表したが、計画は2015にな
って中止された。
アンディ・ウォーホルの作品は死後も高く評価され続けており
、オークションなどでは1億ドル以上の高値で取引されることさ
えある2013には彼のシルクスクリーン作品である「銀色の車の
事故(二重の災禍)」がサザビーズで競売にかけられ1億544万ド
ルで落札され、彼の作品では落札最高値、美術品競売全体でも当
時で4位の高値となった。
2022には、シルクスクリーン作品「ショット・セージブルー・マ
リリン」がクリスティーズで競売にかけられ1億9500万ドルで
落札され、最高価格を更新した。美術品オークション全体では
史上2位の高値であった。この作品はウォーホルがマリリン・
モンローのシルクスクリーン作品4枚を壁に立てかけておいた
ところを、知人がいたずらで銃弾で撃ち抜いて穴をあけたこと
で「ショット・マリリン」と呼ばれることになったものの1枚で
ある。
それにさかのぼる2011には、デニス・ホッパーが銃弾を2発を撃
ち込んで穴を開けた毛沢東の肖像画がクリスティーズで競売に
かけられ30万2500ドルで落札されている。壁に掛かっていた肖
像画が、毛沢東によく似ていることをデニス・ホッパーが気味
悪がり、銃で撃ってしまったといわれている。後日、デニス・ホッ
パーが製作者のアンディ・ウォーホルにこの絵を見せ、2人の共
同制作となったことで知られる。
晩年にはコンピュータアートにも興味を持ち、2014にフロッピ
ーディスクに残されていた未発表のデジタル作品28点が発見さ
れた。また、自分自身のロボットをも制作させていた。シャイ
で人前に出るのを好まなかったためロボットに代わりを務めさ
せたかったと言われている。1960代には、大学でのウォーホル
の映画上映会に出向いて質疑応答に応えるのを嫌がり、友人を
ウォーホルに変装させて代わりに送っていた。
アンディ ウォーホル年譜
1928 ペンシルバニア州ピッツバーグでスロヴァキアの移民の家に生まれる
大恐慌の影響で家庭は非常に貧しく、病弱なウォーホル
は家でラジオを聞いたり、本やコミックを読むことが多く、
スーパーマン、ポパイ、バットマンに憧れる絵が上手な少年だった。
1949 カーネギー工科大学を卒業
1950 ドローイングによるアート作品の制作を開始
ニューヨークで商業アーティストとして活動を開始
雑誌"ヴォーグ"ハーパース・バザー"の広告イラストや
ティファニーのウインドウ装飾等を手がけ、1950年代
末までに商業分野で成功を収める
1962 写真をベースにするシルクスリーンという手法を使いはじめる
反復と量産を意識してあのコカ・コーラ、キャンベル・
スープ、プレスリー、マリリンを制作するようになる
資本主義が生み出した工業製品や有名人のポートレート
をモチーフにした作品は彼のスタジオ"ファクトリー"で
工場の流れ作業を意識してアートとして量産されるよう
になる
大衆は彼の作品に一体感を感じ支持しました。
1965 フィラデルフィアで行われた個展には入場者が多すぎて
収拾がつかなくなり、作品を壁から外さなければならな
かった
ウォーホルの名声はこの時期に一挙に確立されました。
彼の仕事はアート作品制作だけにとどまらず"チェルシー
・ガールズ"等数多くの映画製作やナイトクラブのショー、
ロックバンドのベルベット・アンダーグラウンドのプロ
デュースまで行なう
1969 インタビューで誌面すべてを構成する雑誌"インタビュー"”創
ウォーホルは彼のアート作品とともに意識的に自分自身が
メディアとなっていき、数多くのスキャンダラスな話題を
提供するウォーホルはマスコミ、ファッション界、ニューヨ
ークの社交界でも注目を浴びる存在となる
1970代 社交界からの注文で多くのポートレートを制作
トルーマン・カポーティー、ミック・ジャガー、マイケル
ジャクソン、キャロライン王女など幅広い分野の有名人の
依頼をこなす
1980代 アート・ビジネスとの関わりが増え、個展開催が増大
1987 ロバートミラーギャラリーで初めてのウォーホル写真展が開催
1987 2月22日突然心臓発作で急死、享年58歳
シルクスクリーンのモチーフ
商品:キャンベル・スープ缶「キャンベルのスープ缶」、シャネルN°5
、コカ・コーラ、アブソルート・ウォッカの瓶、ブリロ・ボックス
有名人:エルヴィス・レスリー、エリザベス・テイラー、イングリッド
・バーグマン、クリストファー・リーブ、公女カロリーヌ、ジミー・カ
ーター、ジョン・F・ケネディ、ジャクリーン・ケネディ、トルーマン・
カポーティ、マイケル・ジャクソン、マリリン・モンロー、マーロン・
ブランド、ミック・ジャガー、プリンス、チェ・ゲバラ、毛沢東、モハメ
ド・アリ、ウラジーミル・レーニン、坂本龍一、山口小夜子
彼による肖像画は高額なギャランティーから当時の有名人らのス
テイタスとされ、多くの有名人が自分の姿のプリントを希望した。
キャラクタ:ミッキーマウス、ミニーマウス、鉄腕アトム
その他:ドル紙幣、原子爆弾、ピストル、自由の女神、電気椅子、夕日
、花、最後の晩餐
映画制作
シルクスクリーンプリント制作の傍ら1963〜68にかけ、60を超え
る映画も手掛けた。ただし実験映画的な作風から、一般公開され
たものは少ない。初めて一般に公開された作品は1966の「チェルシ
ー・ガールズ」。最も有名な一本は、眠る男を6時間映し続けた「スリ
ープ( Sleep)」(1963)。彼はアクション映画を好まず(本質的には
同じであるにもかかわらず、ささいな差異にこだわっているから)
、自らの映画では「本質的に同じのみならず細部まで全く正確に同
じであること」を望んだ。延々と変化のない映像は普遍的なもの
をテーマとしたウォーホルの視点から見ると、理想だったのかも
しれない。その後も映画制作をし、劇映画も制作。ニューヨークの
有名ホテル「チェルシー」を舞台に、その各部屋で繰り広げられ
る人間の喜怒哀楽を、任意の2部屋分だけ適宜の時間セレクトし、2
つのスクリーンを使いランダムに映し続ける(途中どちらか片方
のスクリーンにはニコの貌がランダムに挿入される)、「チェルシ
ー・ガールズ」(1966)は全米で公開され大ヒットとなった。他にも
「エンパイア (1964)」。「フォースターズ(1967)」がある。1970代
に入ってからはそれまでの作品とは一転し、ジョー・ダレッサンド
ロやウド・キアを主演とする「悪魔のはらわた」(1974)や「処女の生
血」(1974)、「アンディ・ウォーホルのBAD」(1977)といったホラー
映画の総監修も行なった。ポルノ映画「ブルー・ムービー」の監
督も行った。
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