山下清
東京府東京市浅草区田中町(現・東京都台東区日本堤1、
2丁目辺り)に、父・大橋清治、母・ふじの長男として
生まれる。
翌年に関東大震災によって田中町一帯が焼失すると、両
親の郷里である新潟県の新潟市(現中央区)白山浦に転
居する。
その2年後の3歳の頃に風邪から重い消化不良で命の危険
に陥り、一命こそ取り留めたものの、軽い言語障害、知的
障害の後遺症を患う。
一家は1926には浅草に戻った。
脳出血で父の清治が1932に他界すると、母・ふじは再婚
する。
その再婚相手は最初は優しく、相撲や将棋(はさみ将棋)を
してくれたが、酒が入ると母子に暴力を振るった。
小学校(石浜小学校)でいじめられたことを話す清に「刃
物で相手を怪我させろ」と唆す養父で、いじめに遭った際
に鉛筆削り用の小さなナイフを手に持つようになってし
まった清は、同級生に大ケガをさせた事がある。
1934の春、養父が不在の間に、母・ふじが清を含む子供3人
を連れて北千住(足立区千住)の木賃宿へ逃れる。
生活の困窮で、すぐに杉並区方南町(現杉並区方南)に
ある母子家庭のための社会福祉施設「隣保館」へ転居。
この頃に母・ふじの旧姓が山下であるため山下清を名乗
るようになる。
しかし、新しい学校でも勉強についていくことができず、
反抗的な態度だったため、同年5月、母・ふじが千葉県東
葛飾郡八幡町大字八幡字衣川(現千葉県市川市八幡4丁目)
の知的障害児施設(清が入園した当時は救護法下の救護
施設)「八幡学園」へ預ける。
この学園での生活で「ちぎり紙細工」に出会う。
これに没頭していく中で磨かれた才能は、1936から学園
の顧問医を勤めていた精神病理学者・式場隆三郎の目に
止まり、式場の指導を受けることで一層開花していった。
1937秋には、八幡学園の園児たちの貼り絵に注目した早
稲田大学講師戸川行男により早稲田大学で小さな展覧会
が行われたほか、1938年11月には同大学の大隈小講堂に
て「特異児童労作展覧会」が行われ、清の作品も展示さ
れた。
そして1938年12月に、東京府東京市京橋区銀座(現中央区
銀座)の画廊で初個展を開催、1939年1月には、大阪の朝日
記念会館ホールで展覧会が開催され、清の作品は多くの
人々から賛嘆を浴びた。
梅原龍三郎も清を高く評価した一人であり、「作品だけか
らいうとその美の表現の烈しさ、純粋さはゴッホやアン
リ・ルソーの水準に達していると思う」と評価していた。
八幡学園での在籍期間は長かったものの、第二次世界大
戦中の1940の18歳の時に突如学園を脱走し、1940年11月
18日から1955年6月までの間、放浪の旅を繰り返した。
後年、この時に脱走した理由を訊ねられても、ただ「イヤ
になったから」としか答えていないという。
脱走から2年後の1942の20歳の時に、受けることになって
いた徴兵検査を受けたくなかったため、更に放浪を続け
た。
千葉県我孫子市の我孫子駅売店弥生軒にて住み込みで働
いていたのもこの頃で、半年ごとに放浪しては千葉に戻
ってくる事を5年ほど繰り返したという。
1943の21歳の時、食堂で手伝いをしていたところにやっ
て来た八幡学園の職員によって連れ戻され、母・ふじが
無理やり徴兵検査を受けさせたが、知的障害を理由に兵
役免除となる。
この記録は『放浪日記』(1956)にまとめられた。
なお、この時のいでたちとして、リュックサックを背負
う姿がテレビドラマなどで描かれている。
戦後は「日本のゴッホ」、「裸の大将」と呼ばれた。
1954当時、鹿児島を放浪中に清は「ゴッホもルソーも全然
知らない」と言っていたが、以前にゴッホの模写などはし
ており、同年、東京・日本橋丸善で開催されていたゴッホ展
を訪れている。
1956の東京大丸の「山下清展」を始め、全国巡回展が約130
回開かれ、観客は500万人を超えた。
大丸の展覧会には当時の皇太子明仁も訪れた。
1961年6月、式場隆三郎らとともに約40日間のヨーロッパ
旅行に出発。
各地の名所を絵に残した。
晩年は、東京都練馬区谷原に住み、『東海道五十三次』の
制作を志して、東京から京都までのスケッチ旅行に出掛け
た。
およそ5年の歳月をかけて55枚の作品を遺している。
ただし、1968、高血圧による眼底出血に見舞われ、その完
成は危ぶまれていた。
1971年7月12日、脳出血のため死去。
わずか49歳であった。
当時、我孫子の弥生軒からの依頼で、描いていた四季をテー
マにした4種類の弁当(駅弁)の包装紙のうち、冬のモチーフ
のものは描かれず、3種類しか作成されなかった。
墓所は冨士霊園。
清は驚異的な映像記憶力の持ち主で、「花火」・「桜島」など行
く先々の風景を、多くの貼絵に残している。
海外の研究者などの中には、清の持つ軽度の知的障害と結
びつけてサヴァン症候群だったのではないかと考える者も
いる。
とりわけ、花火が好きだった清は、花火大会開催を聞きつ
けると全国に足を運び、その時の感動した情景をそのまま
作品に仕上げている。
花火を手掛けた作品としては、『長岡の花火』などがある。
しかし、実際はドラマや映画とは違って旅先ではほとんど
絵を描くことがなく、八幡学園や実家に帰ってから記憶を
基に描くというスタイルだった。
その人気の高さや、所属していた画壇がなかったために、
その作品を鑑定できる者がいないこと、各地でお礼のため
に作品を残したというテレビドラマの描写の影響から、贋
作を本物と偽った展覧会などが開催されることがある。
実際には貼り絵はほとんど学園や自宅で制作していて、遺
族が保管している。
山下清年譜
1922 3月10日東京、浅草に生まれる
1925 重い消化不良にかかり3ヶ月後に完治したがそれから
軽い言語障害・知的障害となる
1934 八幡学園に入学
貼絵のてほどきを受け、その特異な才能が発見される
1936 文藝春秋に作品が発表される
1940 突然八幡学園から失踪
15年にわたる放浪生活を始める
その旅で印象づけられた風景を貼絵にし画家や文学者
から絶賛される数々の傑作を制作する
1956 放浪生活に終止符
以後数年間全国各地で作品展開催
観客動員数800万人という大記録を達成
1961 ヨーロッパ一周スケッチ旅行に出る
40余日間で数十ヶ国を廻る
帰国後50点以上の素描、水彩画の全国巡回展を開催
1年1作品という割合で、ヨーロッパの美しい風景の貼絵
制作
1964 旅の記憶をもとに貼絵「グラバー邸」制作
1971 7月21日逝去 享年49歳 |