マンレイMan Ray
1890年 ペンシルベニア州、フィラデルフィアに、ユダヤ系
ウクライナ人の父、
ユダヤ系ベラルーシ人の母のもとに生まれる
1897年 はニューヨーク市のブルックリン地区に引っ越す
1904年 高校に入学し、製図を学ぶ
卒業後は出版社で図案を作ることで生活を立てなが
ら画廊に出入りするなどして画家として活動する
1915年 フランスの詩人であるアドン・ラクロアと結婚し、
この頃から本名のエマニュエル・ラドニツキーでは
なく(本名のEmmanuel Radnitzkyを縮めた)
マン・レイと名乗るようになる
自作の絵を写すため写真機を購入
マルセル・デュシャンと出会い
絵画とドローイングによる最初の個展を開催
1921年 エコール・ド・パリの時代であったパリに渡り、モン
パルナスに住みながら本格的に写真に傾倒する
パリに戻っていた親友のデュシャンの紹介によって、
パリのダダイスト達と交友を始める
フランスの歌手・モデルであるキキに出会い恋に落ちる
職業的な写真家として成功をおさめ、ファッション
雑誌などに写真が掲載されるようになる
彫刻家コンスタンティン・ブランクーシと交友し、
ブランクーシに写真の技術の手ほどきをする
シュルレアリスム運動が起こると、シュリレアリスト
達とも交わり、シュルレアリスム的作品も手がけるこ
ととなる
ソラリゼーションを表現技法として最初に利用したこ
とでも有名
1935年 第1回シュルレアリスム展にマックスエルンスト、パウル
クレー、アンドレ・マッソン、ジョアン・ミロ、パブロ
ピカソらと共に参加
シュルレアリスム的作品を手がける一方で、当時のアー
ティスト達の姿も写真に収めている
1929年 キキと別れる
1940年 戦火を避けてアメリカに移り、ロサンゼルスで暮らす
この頃、ハリウッドスターなどの写真を撮るが、パリほ
どの名声は得られず
1946年 マックスエルンストとドロテア・タニング、マンレイと
ジュリエット・ブラウナーが合同で結婚
1951年 パリでの活動を再開
1969年 ボックスアートの「ペシャージュ」を作成
1976年 パリで生涯を終える
墓はモンパルナス墓地にあり、ジュリエットと共に眠る
マンレイの墓碑には「Unconcerned, but not indifferent」
と「Together Again」の文字が刻まれている |