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ジャン フォートリエ

Jean Fautrier(1898-1964)

ジャンフォートリエはパリに生まれる。母は未婚であり、
苗字は母から受け継いだ。幼少時代は祖母によって育てら
れ、1908に祖母が亡くなると、母と共にロンドンに移住した
1912年ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツに入学したが
堅苦しい指導に不満を抱き、スレード美術学校に転校した
しかしフォートリエはそこでも同じような失望を経験した
フォートリエはテート・ギャラリーの作品、とりわけジョ
ゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーの作品に強い影響を
受けた。フォートリエ自身の作品は、1922にサロン・ドート
ンヌに初めて展示された。その2年後の1924にはパリで個展
を開いた。この頃の作風は「表現主義風」とされる。
1928には、絵画制作と平行して、ガリマール出版社が企画し
たダンテ「神曲」の挿絵入り本のために版画を制作したが、
結局出版されることはなかった。それから1933までは絵画
と彫刻の制作に時間を費やしていたが、金欠に陥ったため、
1934〜36の間ティーニュ(フランス)で生活し、スキーの
インストラクターをしたりジャズクラブを立ち上げたりし
て生計を立てた。
1937フォートリエは創作活動を再開し、1943には22の彫刻
作品を残した。また同年ゲシュタポに捕まり、パリから逃走
してシャトネ=マラブリーに避難。避難先で連作『人質』
を制作した。この作品は1945に展示され、サルトルなどから
「最も戦後的な画家」という賛辞を受けた。戦後の作品は
抽象性を強め、また絵画の大きさも小さくなる傾向にあっ
た。絵の具のかたまりを押しつぶしたような作品は「鉱物
のような人間像」「戦争をくぐりぬけて得た非情な人間観」
が表現されていると評される

1964にシャトネ=マラブリーで死去。1989には、パリ市立
近代美術館で回顧展が開かれた。また2005には、ピエール
・ジアナダ財団が主催した回顧展が、スイスのマルティニー

で開かれた ジャン フォートリエ年譜

1898 5月16日フランスのパリに生まれる
   幼少時に1父が死去
   一時祖母のアイルランドで暮らすが、10歳のときに
   祖母も亡くなり、母のいるロンドンへ転居

1909 イギリスへ渡り、12年にロンドンのロイヤルアカ
   デミーに入って美術を勉強するが、中退する

1917 召集を受けて帰国
   英語が堪能なため、さまざまな任務につき、戦線で
   負傷

1920 第1次世界大戦終了を機にパリに戻る
   ポール・ギョームらの知遇を得る

1923 初個展

1928 初めての抽象的な絵を描く

1929 現代の古代洞窟壁画的な「横たわる裸婦」などを制作

1934−39不況により、ポール・ギョームらからの援助も打ち
   切りとなる
   パリからアルプス地方へと転居し、スキーの指導員
   ナイトクラブの経営等で生計を立て絵画から遠ざか
   る

1940 第2次世界大戦中は対独抵抗運動の中心人物となり
   、パリの郊外に隠れて人質のシリーズを制作する
   パレット・ナイフによって念入りに厚く塗り重ねた
   淡い色彩によって、既製の形に頼らず、絵画のマチエ
   ールの自発的な働きをつむぎ出すようなその作品は
   、アンフォルメルの源流となっている
   アメリカの抽象表現主義に与えた影響も少なくない。
1943 パリ、ドルーアン画廊で〈人質〉展開催

1945 パリ、ドルーアン画廊で〈人質〉展開催
   レジスタンスの知識人より賞賛を集める
   これは当時彼の隠遁隠先のシャトネイ−マラブリイ
   の精神病院に隣接した森の中で、捕虜たちがナチス
   に処刑されたことに憤り制作を着手したといわれる
   (42年頃)

1956 リヴ・ドロワット画廊で《物体》シリーズの個展を
   開催

1957 ハンガリー動乱をもとに〈パルチザン〉を発表

1959 来日、南画廊で個展を開く

1960 ヴェネチア・ビエンナーレで大賞を受賞

1964 7月21日フランスで没する

作品
Blue Lake II (1926)
Flayed Wild Boar (1927)
The Trees (1928)
Large Nude from the Front (1930)
Large Tragic Head (1942)
人質 (連作、1943- )
The Key (1949)
彼の美しい目 (1955)
永遠の幸福 (1958)
シーソーのシステム (1960)
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