浜口陽三(1909-2000)に生まれた。 浜口家は代々「儀兵衛」を名乗るヤマサ醤油の創業家で あり、陽三は10代目浜口儀兵衛の三男に当たる。 幼少時に一家で千葉県銚子市に転居。 東京美術学校(現東京藝術大学)では彫刻科塑造部に入学 したが、2年で退学しパリへ渡航した。 パリ滞在中の1937頃からドライポイント(銅板に直接針 で図柄を描く、銅版画技法の一種)の制作を試み、版画 家への一歩を記し始めた。 戦時色の濃くなる中、1939日本に帰国。 自由美術家協会に創立会員として参加するが、戦時下に はなかなか作品発表の場が無かった。 1942には経済視察団の通訳として仏領インドシナ(ベト ナム)に渡航し、1945帰国している。 浜口陽三は20世紀におけるメゾチント技法の復興者とし て国際的に知られる。 メゾチントは「マニエル・ノワール(黒の技法)」の別 名でも呼ばれる銅版画の技法の1つで、鏡面のような銅 板の表面に「ベルソー」という道具を用いて、一面に微細 な点を打ち、微妙な黒の濃淡を表現するものである。 こうして作った黒の地を「スクレイパー」「バニッシャー」 と呼ばれる道具を用いて彫り、図柄や微妙な濃淡を表す。 この技法は写真術の発達に伴って長く途絶えていたもの である。 浜口陽三はこの技法を復興させると共に、色版を重ねて 刷る「カラー・メゾチント」の技法を発展させたことで 知られる。 浜口陽三が本格的に版画の制作を始めるのは、第二次世 界大戦後の1950前後、40歳頃のことであった。 1953には再度渡仏し、以後主にフランスで制作を続けた。 1957にはサンパウロ国際版画ビエンナーレの版画大賞と 東京国際版画ビエンナーレにおける、国立近代美術館賞を ダブル受賞し、国際的評価が高まった。 その後も多くの国際的な賞を受けている。 妻の南桂子も版画家である。 1971〜72にはブラジルに滞在。 フランスにいったん戻った後、40年来の本拠地を1981 からサンフランシスコに移す。 版画の刷師を探すところまで立ち返り、制作活動を再開。 やがてパリとサンフランシスコそれぞれの本拠で手がけ た同じモチーフの作品を比較すると、色調に変化が現れ る。 1996日本へ戻り、2000年12月に没するまでの数年間を 日本で過ごした。 まとまった作品はヤマサコレクション施設と、浜口陽三 の生前に受贈した武蔵野市立吉祥寺美術館に収蔵される。 後者は記念室を設け、作品と制作の道具を展示する。 浜口は作品のモチーフとして、ブドウ、さくらんぼ、くる みなどの小さな果物や貝、蝶などの小動物を多く取り上 げ、空間を広く取った画面構成で逆に小さな対象物を際 立たせる手法を好んで用いた。 版画作品は、通常刷り上がった順にシリアル番号を付け るが、浜口は刷り上がりの良い作品の順に番号を付けて いた。 浜口陽三年譜 1909 和歌山県に生まれる 1915 千葉県銚子市に移住 1930 梅原龍三郎の助言により東京美術学校中退 渡仏 1937 最初の銅版画制作「猫」 1939 第2次世界大戦のため帰国 1953 再び渡仏、パリに定住 1954 現代日本美術展で受賞 「スペイン風油入れ」「ジプシー」 1955 この頃からカラーメゾチントを制作「西瓜」 1957 第1回東京国際版画ビエンナーレで 東京国立近代美術館賞を受賞 「水差しとぶどうとレモン」「青いガラス」 サンパウロビエンナーレで日本人として大賞初 受賞 「魚と果物」「したびらめ」「西瓜二切」等 1961 リュブリアナ国際版画展で受賞 (ユーゴスラビア) 1972 第4回クラコウ国際版画ビエンナーレで受賞 「びんとさくらんぼ」 1981 パリからサンフランシスコに移住 1982 北カリフォルニア版画大賞展でグランプリ受賞 「西瓜」 1984 サラエボ冬季オリンピック大会でオリンピック記 念ポスターに「さくらんぼと青い鉢」が採用される 1996 帰国 2000 12月25日逝去 享年91歳 代表作品 西瓜二切(1954)国立国際美術館 西瓜(1955) パリの屋根(1956)和歌山県立近代美術館 水差しとぶどうとレモン(1957)東京国立近代美術館 突堤(1965)国立国際美術館 蝶と太陽(1969)国立国際美術館 さくらんぼと青い鉢(1976)武蔵野市立吉祥寺美術館 8つのくるみ(1977)京都国立近代美術館 2匹の蝶(1977)ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクション 魚と果物 千葉市美術館 |