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東山魁夷(1908-1999)

船具商を営んでいた父・浩介と妻・くにの次男として神奈
川県横浜市の海岸通に生まれる。
父の仕事の関係で3歳の時に兵庫県神戸市西出町へ転居。
兵庫県立第二神戸中学校(現:兵庫高校)在学中から画家
を志し、東京美術学校(現:東京芸術大学)日本画科へ進
学した。
結城素明に師事。在学中の1929第10回帝展に「山国の秋」
を初出品し、初入選を果たす。
1931年に美術学校を卒業した後、1933年、ドイツのベル
リン大学(現:フンボルト大学)に留学。
1934年日本とドイツとの間で交換留学制度が始まり、第
1回日独交換留学生(日本からのドイツ学術交流会最初の留
学生)として2年間の留学費用をドイツ政府から支給される
ことになり、11月ベルリン大学文学部美術史科に入学した
が、父危篤の報を受け奨学金支給期間を1年残したまま日本
に帰国した。

1940年には日本画家の川ア小虎の娘すみと結婚。同年、東
北地方へのスケッチ旅行で足を延ばした種差海岸(青森県
八戸市東部)の風景とそこにいる馬に取材した「凪」を紀元
二千六百年奉祝美術展に出展した。
種差を題材にしたと思われる作品は生涯で17点ほどあり、
馬も東山作品のモチーフとなった。

太平洋戦争に前後して、画業でも家庭でも苦難が続いた。
1941年には母が脳出血で倒れて療養生活に入り(1945年
11月死去) 事業に失敗した父は翌1942年に急死。

1945年4月には母と妻を伴って高山(岐阜県)へ疎開するも
、7月には召集令状を受けて入営。熊本県で爆弾を抱えて
の対戦車体当たり攻撃の訓練を受けるうち終戦を迎えた。
召集解除後は小虎、母、妻が疎開していた山梨県中巨摩郡落
合村(現:南アルプス市)に一旦落ち着く。

戦後1945年11月に母が死去すると千葉県市川市に移った。
市川では、馬主として知られる同地の実業家である中村勝
五郎から住居の提供など支援を受けていた。
1946年の第1回日展には落選し、直後に結核療養中だった
弟が死去。
東山魁夷は当時の境遇を「どん底」と回想しつつ、「これ
以上落ちようがない」と思うとかえって気持ちが落ち着き
、「少しずつでも這い上がって行く」決意を固めた。

1947年の第3回日展で、鹿野山(千葉県君津市)からの眺めを
描いた『残照』が特選を得て日本国政府に買い上げられた
ことから世評が高まり、風景を題材とする決意を固め、独自
の表現を追求した。
1950年に発表した『道』は、前方へとまっすぐに伸びる道
それだけを描く作品で、単純化を極めた画面構成に新機軸
が示されている。
制作前には種差を再訪し、中村が紹介したと思われるタイ
ヘイ牧場に投宿して写生した。

1953年、大学の同窓・吉村順三設計による自宅を建て、50
年以上に亘りその地で創作活動を続けた。

北欧、ドイツ、オーストリア、中国と海外にも取材し、次
々と精力的に発表された作品は、平明ながら深い精神性を
備え、幅広い支持を集めた。同年に日展審査員となり、以
後、歴任した。
1970年代には約10年の歳月をかけて制作した奈良・唐招
提寺御影堂障壁画『黄山暁雲』は畢生の大作となった。
千変万化する山の姿を墨の濃淡を使い分け、鮮やかに描き
出した東山は黄山を「充実した無の世界」と表現した。
混沌とした自然の移ろいにあらゆるものを生み出すエネル
ギーを感じ取った。この計画を手がけたことにより国内で
の知名度と人気はさらに高まり、国民的日本画家とも呼ば
れるようになった。
画集のみならず文章家でもあり画文集など、著作は数多い。
川端康成とも親交が深かった。

ドイツ留学中に知ったドイツロマン主義の画家、カスパー
・ダーヴィト・フリードリヒを日本に初めて紹介したのも
彼である。
また、瀬戸大橋のライトグレー色を提案したことでも知ら
れる。

1999年、老衰のため90歳で死去、従三位、勲一等瑞宝章。
生前、日展への出品作など代表作の多くを東京国立近代美
術館と長野県に寄贈。
長野県は長野県信濃美術館(現長野県立美術館)に「東山
魁夷館」(谷口吉生設計)を増設し、寄贈された作品の常設
展示にあてている。
その他、少年時代を過ごした神戸市にある兵庫県立美術館
、祖父の出身地である香川県坂出市の「香川県立東山魁夷
せとうち美術館」にも、版画を中心とする作品が寄贈され
ている。
戦後の復員直後から死去するまで暮らしていた千葉県市川
市には自宅に隣接して「市川市東山魁夷記念館」が開館した。
また、美術学校時代のキャンプ旅行の途中、激しい夕立に
遇った際に温かいもてなしを受けたことに感謝して後に寄
贈された約500点の版画を収蔵する「東山魁夷 心の旅路館」
が、岐阜県中津川市(旧長野県木曽郡山口村)にある。

東山魁夷年譜 1908 横浜市に生まれる(本名:新吉)

1911 神戸西井出町に移住

1926 東京美術学校日本画科入学

1929 第10回帝展に「三国の秋」が初入選

1931 東京美術学校日本画科を卒業
   この年から結城素明に師事し、魁夷と号する

1933 ヨーロッパ美術研究のため渡欧(〜35)

1934 第一回独文化交換学生としてベルリン大学入学

1937 神戸画廊にて初個展「滞欧スケッチ展」

1939 第一回日本画院展で「冬日」が日本画院賞
   第一席となる

1940 川崎小虎の長女すみと結婚

1943 川崎小虎、山本丘人と国土会を結成

1947 第三回日展に「残照」を出品、特選となり
   政府買い上げとなる

1950 第六回日展に「道」を出品

1956 「光昏」で日本芸術院賞受賞

1960 東宮御所壁画「日月四季図」完成

1961 宮内庁依頼による吹上御所に飾る「萬緑新」完成

1962 北欧四カ国を旅行

1963 東山魁夷自薦展開催(松屋・銀座)
   東山魁夷代表作品展(大丸・神戸)

1964 リトグラフ挿画本「古き町にて北欧紀行」
   明治書房より刊行

1965 日本芸術院会員に推挙
   日展理事に就任

1968 新宮殿壁画「朝明けの湖」が完成
   文化財保護審議会専門委員となる

1969 毎日芸術大賞受賞
   日展常任理事に就任
   ドイツ・オーストリア旅行
   文化勲章を受章し、文化功労者に選ばれる

       1970 東京国立博物館の評議員となる

1971 ドイツ・オーストリアの旅による新作
   「古都を描く」「窓」の主題に寄る連作展開催
   (三越・日本橋)

1972 日中国交正常化に際し、日本政府より毛主席
   に贈られる「春暁」制作

1973 「白い馬の見える風景」展開催(松屋・銀座)

1974 日展理事長就任

1975 訪日のエリザベス女王に贈られる「春の曙」制作
   唐招提寺障壁画「山雲」「濤声」が完成
   「第一期唐招提寺障壁画展」が開催される

1976 ドイツ連邦共和国功労大十字勲章受賞

1977 パリの日本大使公邸のため「青い谷」制作
   東京国立近代美術館評議員となる
   ワシントンの日本大使公邸のため「山嶺湧雲」制作
   パリプチパレ美術館で開催の「唐招提寺展」に「山雲」
   「濤声」が出品される

1979 東ベルリン国立美術館アルテス・ムゼーウムとライ
   プチヒ造型美術館で「日本 東山魁夷絵画展覧会」
   が開催され訪独

1980 第二期唐招提寺御影堂障壁画展「黄山暁雲」
   「揚州薫風」「桂林月宵」四十二面が開催

1981 鑑真和上厨子絵「瑞光」完成

1985 日本中国文化交流協会代表理事就任
   ベルリン日独センター評議員となる
   同時に、日独協会名誉会員に推戴される

1989 「東山魁夷展」が開催される
   (ベルリン国立東洋美術館、ハンブルグ゙芸美術館、
   ウィーンキュンストラーハウス)

1990 長野市の城山公園内に東山魁夷館開館

1995 米寿記念―唐招提寺障壁画と画業60年の歩み「東山
   魁夷展」開催
   (東京、京都、長野県立美術館・東山魁夷館)

1997 卒寿をむかえて―東山魁夷「私の森」展開催
   (神戸、福岡)

1998 長野オリンピック開催に合わせて、「人と自然そして
   祈り in Japan」開催
   (長野県立美術館・東山魁夷館)
   「東山魁夷展」開催(富山、千葉)

1999 5月6日逝去 享年91歳    勲一等瑞宝賞を受賞

2000 福岡、東京、名古屋でパリ展帰国記念東山魁夷展開催
   信濃美術館で東山魁夷館10周年記念展東山魁夷の世界

2004 横浜美術館で東山魁夷展ひとすじの道

2005 で香川県立東山魁夷せとうち美術館開館記念展
   (坂出市沙弥島)
   市川市で市川市東山魁夷記念館開館記念特別展

2008 東京、長野で生誕100年東山魁夷展

2018 東京、京都で生誕110年東山魁夷展

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