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北川民次アメリカ合衆国とメキシコに計22年間滞在し、高まりを見せていたメキシコ壁画運動などのメキシコ絵画の影響 を受けて力強い作風の作品を残した。 児童美術の教育者としても活動した。 1894年1月17日静岡県榛原郡五和村牛尾(現島田市牛尾) に生まれた。 父親は幸次郎、母親はきく、異母兄2人、異母姉1人、異腹姉 1人、実兄2人、実姉1人がおり、民次は五男だった。 地主でもある北川家は製茶業を営んでおり、アメリカ合 衆国への日本茶の輸出も手掛けていた。 小学校卒業後には静岡県立静岡商業学校に進学し、江戸 時代の軟文学を読み漁ったり、女義太夫を観に芝居小屋 に出向いたりした。 1910に静岡商業学校を卒業し、早稲田大学商学部予科 に進学して高田馬場に下宿した。早稲田では後に詩人と なる秋田雨雀の知遇を得たほか、予科で上級だった宮崎 省吾(フュウザン会出品画家)に手ほどきを受け、1912年 頃に絵を描き始めた。 早稲田の英文学の教員には北川と同郷の本間久雄がおり 宮崎の同郷の椿貞雄とも知り合った。 1914に早稲田大学を中退して横浜港から渡米した。 まずはオレゴン州ポートランド在住の実兄・津久井育平 の家に身を寄せ、レストランで働きながら語学学校に通 って英語を習得した。1年あまりでアメリカ西海岸を去る と、イリノイ州シカゴでの滞在期間を挟み、1916初頭 にニューヨークに渡った。 ニューヨークでは舞台の書き割りを担当する職人として 働いて生計を立て、この経験が後に構図のセンスの良さ につながったとされる。 劇団が地方巡業に出る際には北川も同行し、劇場組合員 として労働争議にも参加。北川は当時を「学生というよ り、労働者と言ったほうが適切であった」と振り返って いる。 1919には美術研究所であるアート・スチューデンツ・リ ーグ・オブ・ニューヨークに入学。夜間のコースを開催し ていたジョン・スローンに師事しているが、後にはスロ ーンが社会主義者だったから選んだとも語っている。 スローンに学んだ日本人には石垣栄太郎やヘンリー杉本 などもいる。 北川と同時期には国吉康雄もアート・スチューデンツ・ リーグの別教室で学んでおり、国吉とは芸術や社会を論 じた。 スローンには「民衆を描くこと」「目前の対象を忠実に描 くこと」を学び、1921にアート・スチューデンツ・リーグ を卒業した。 アメリカ合衆国ではフリードリヒ・ニーチェの思想に傾 倒し、ジークムント・フロイトの心理学も学んだ。 ニューヨーク時代にどのような作品を描いていたのかは 定かでない。 1922にはニューヨークを後にし、フロリダ州マイアミ で日本人経営者の農園の労働監督者を務めた。 その後キューバのハバナではホテルで働いていたが、ア メリカで貯めた3000ドルやニューヨーク時代のデッサ ンなどが入ったスーツケースを日本人に持ち逃げされた。 1923にはメキシコのオリサバに着き、しばらくの間は聖 画の行商を行った。同年中にメキシコシティのサン・カル ロス美術学校(キシコ国立美術学校)に入学すると、3か月 で課程を修了して卒業している。 サン・カルロス美術学校はホセ・クレメンテ・オロスコや ディエゴ・リベラやダビッド・アルファロ・シケイロスが 学んだ学校でもある。 1924にはメキシコシティ郊外のチュルブスコ僧院に附属 した野外美術学校のスタッフとなり、オロスコ、リベラ シケイロスらによるメキシコ壁画運動(メキシコ・ルネサ ンス)に共感。1925にはメキシコシティ郊外のトランバ ムの野外美術学校で教えはじめ、野外美術学校の生徒の 作品展はメキシコ大統領や文部大臣などが称賛、ヨーロ ッパにも巡回されてパブロ・ピカソ、アンリ・マティス 藤田嗣治などが称賛した。 1926には野外美術学校の正規教員となっている。 1931にはタスコ・デ・アラルコンに移転した野外美術学 校の校長となった。この間の1929には二宮てつ乃と結婚 し、1930には長女が生まれている。 日本で看護師をしていたてつ乃は、駐日スペイン大使の 娘を看護した縁でスペインを訪れ、同大使のメキシコ転 勤の際にメキシコに同行していたのである。 1933には南北アメリカを旅行中の藤田嗣治とその妻マド レーヌが、一週間に渡って北川の家に滞在。 タスコ在住時には国吉康雄、イサム・ノグチ、シケイロス、 リベラなどの訪問も受けている。 計22年間滞在したアメリカとメキシコでは自由と民主主 義を基本的思想とし、メキシコでは銅版画の技術を習得 している。42歳だった1936夏にはタスコの野外美術学校 を閉鎖し、7月30日には妻子とともに横浜港に到着した。 グッゲンハイム奨励金を得ることや、長女を日本で教育 させるための帰国であった。 日本帰国後にはまず静岡県に滞留し、次いで妻の実家が ある愛知県瀬戸市刎田町で1年近く過ごした。 1936〜1937には水彩画の連作『瀬戸風景』を描いてお り、当時はほとんど注目されることがなかったが、後に学 芸員の村田眞宏はこの連作について「日本の水彩画の歴 史に新しい1ページを加えた」と評価している。 1937には上京して東京市豊島区長崎仲町に転居した。 同年9月には第24回二科展に5点を出品し、藤田嗣治の推 薦で二科会会員となった。 帰国後の数年間には油彩画やテンペラ画以外でも精力的 な制作活動を行っており、水彩画や版画でも重要な作品 を残している。 当時の日本の洋画壇の中では異質の画風を持ち、その作 品はメキシコ派と呼ばれた。 同年11月にはやはり藤田の紹介により、銀座の日動画廊 で初個展を開催している。 日本帰国後から終戦までの期間はもっとも生産的だった 期間であり、美術評論家の久保貞次郎は、この期間に多い 青灰色の色調からこの期間を「灰色の時代」と名付けて いる。 1938には横浜市教育会館で講演会を行う傍らで、メキシ コから持ち帰った児童画の展覧会を開催している。 二科展に出品し続けたほか、戦前には1939に聖戦美術展 1940に紀元二千六百年奉祝美術展、1943に新文展に出品 している。 1942には久保貞次郎の資金援助により、久保らと設立し たコドモ文化会が北川原作の絵本「マハフノツボ」を出版 したが、その後は用紙の入手すら困難となって絵本の出 版を挫折した。 1943には疎開先として5年ぶりに瀬戸市にやってきて、以 後は1968年まで瀬戸市に住んだ。1944から終戦までは愛 知県立瀬戸高等女学校(現・愛知県立瀬戸高校)の図画教師 を務めた。 瀬戸市は陶土や珪砂の採掘もおこなう窯業の町であり、銀 鉱山で栄えたタスコと共通点があった。 私は尾張瀬戸に一年住んだが、今度またいつてみて、やは り斯ふいふ所の方が、自分には住み甲斐があると思つた。 それは、趣味だけでは片づけられないことだ。林立する 煙突が真黒い煙を吐いてゐて、一日も着ない内に夏服が 灰色になつて終ふのが困るが、私共の生活に必要な物を 生産してゐる町には上づつた遊園地等に見られない美し い姿がある。 太平洋戦争後には二科展のほかに、美術団体連合展、日本 国際美術展、現代日本美術展、国際具象美術展、国際形象 展、太陽展などに精力的に出品を行った。 1944夏と1950夏には、名古屋市の東山動物園内に名古 屋動物園美術学校を開校。1か月に渡って開校されたこの 学校は保護者からの評判も良かったが、移転計画の頓挫 などに失望している。 1951には名古屋市東山に北川児童美術研究所を設立した。 この頃には高知・福井・新潟・長野などで美術教育に関 する講演を行っている。 1952には創造美育協会の発起人となり、全国を回って 「創造美育運動」のセミナーを開催した。 同年には第5回中日文化賞を受賞している。 このように昭和20年代は壁画制作の研究や美術教育の実 践などに力を入れていたため、展覧会への出品数は他の 期間に比べて少ない。 1955〜1956には約20年ぶりにメキシコを訪問し、そ の他にも中南米、フランス、スペイン、イタリアなどを 旅行した。 神奈川県立近代美術館では須田国太郎との2人展が開催 され、画集や版画集も刊行された。 1950年代には輪郭線や分割線のある線描で画面を構成す ることが多く、灰色や褐色ではない明るい色調の作品が 増えた。「絵を描く子供たち」や「子どもの絵と教育」を刊 行するなど、児童画教育の実践だけでなく理論面でも活 躍した。 北川は帰国してからずっと壁画の製作を夢見てきたが、 1959には大きな壁画2作品をほぼ同時期に完成させた。 名古屋市中区の名古屋CBCビルの壁画と瀬戸市民会館の 壁画である。 名古屋CBCビルに設置された大理石のモザイク壁画「芸 術と平和」は高さ6.8メートル×幅16.6mの大きさであ りペンなどを手にした女性たちが描かれている。 瀬戸市民会館のモザイク壁画は高さ2.5メートル×幅4メ ートルであり、瀬戸市赤津町の窯元で製作された陶板が 使用された。 1962には名古屋市中区のカゴメ名古屋本社ビルに、高さ 3メートル×幅15メートルの壁画「TOMATO」を製作した。 カゴメ創業者の蟹江一太郎からは「トマトはなるべく赤く」 などという注文がついたという。 1970には瀬戸市立図書館壁面に陶板壁画を製作。 「妄想におびえる人間が本で知識を付けて妄想を拭い去る」 というメッセージが込められており、北川の壁画としては 最後の仕事となった。 1950〜1960年代には、安保闘争や公害問題などの社会問 題を主題とする政治的な作品を多く製作し、北川様式とも 呼べる絵画表現を確立させた。 メキシコ・花・母子像の画家というイメージは1960年代に 定着したとされ、題材に時事問題を取り入れるようになっ たのは1960年代以後とされる。1960年代後半から1970年 代には、原色を多用した作品を製作し、太くて堅い線では なく柔らかい線が用いられるようになった。 この時期には銅版画・石版画・木版画などの作品も制作し ている 1968には瀬戸市に隣接する東春日井郡旭町(現・尾張旭市) 旭台に転居した。1970前後には母子や花などのエッチング に精力を傾け、1970年の1年間には60点を超える銅版画を製 作している。 メキシコ時代から水墨画も描いており、1970前後には水墨 画でも多くの作品を残した。 80歳に近づいた1970年代半ばには、新しい画題として故郷 静岡県の茶畑を取り入れた。 1978に二科会会長の東郷青児が死去すると、北川が後任の 二会長に就任したものの、同年9月に会長を辞任し、1979 には二科会を脱退した。 二科会を退いたのとほぼ同時期には、絵筆を置く表明も行 っている。 これ以後の作品は数少なく、最晩年の1985〜1987年にア クリル絵具で色紙に描いた十点ほどの作品があるのみであ る。 1986にはメキシコ政府から、外国人に対する最高位の勲章 であるアギラ・アステカ勲章(英語版)を授与された。 その一方で、愛知県が北川に勲章を与えようとした際には 固辞している。1989年4月26日、瀬戸市の陶生病院で死去。 死因は肺線維症。97歳だった。 1989年7月名古屋市美術館で回顧展「追悼 北川民次展」が開 催された。1996年11月〜1997年1月には愛知県美術館で「 北川民次展」が開催された。1996年中は穏やかな客入りだ ったが、年を越してから入場者が増加し、結果的には約3万 人の鑑賞者を集めた。 北川民次年譜 1894 静岡県に生まれる 1910 早稲田大学予科に入学 油絵を描き始める 1914 早稲田大学中退 渡米 1917 ニューヨークのアートスチューデンツリーグで ジョン・スローンに師事 学友に国吉康夫 1921 アートスチューデンツリーグ卒業 1923 アメリカ南部諸州を放浪 キューバを経てメキシコへ 1924 メキシコのサン・カルロス美術学校に通う 1925 チェルブスコ僧院の前期野外美術学校のグルー プに入りオルスコ、リベラ、シケイロスらと交流 を深める トラルパムに開設の野外美術学校勤務 1931 タスコの野外美術学校校長となる 1933 藤田嗣治の訪問を受ける 1936 帰国 1937 藤田嗣治の推薦を受けて第24回二科展に出品、 会員となる フランス美術偏重の日本画壇に衝撃を与える 1943 瀬戸市に疎開 1949 名古屋動物園美術学校を開き、小学生に絵画指導 を行う(-1951) 1951 名古屋市内に児童美術研究所を開設 1952 中日文化賞受賞 1955 メキシコ再訪 1959 名古屋CBCビルに大理石モザイク壁画制作 1961 本間美術館で藤田・北川展開催 1964 現代日本美術展優秀賞受賞 1966 飯田画廊、日動画廊で個展開催(東京、名古屋) 1968 「哺育」で第6回現代日本美術展佳作賞受賞 1970 銅版画の制作を始める 1973 画業60年回顧展開催 1974 飯田画廊で「バッタの哲学」展開催 1978 東郷青児の死去に伴い、二科会会長に推される も、同辞任 1979 二科会脱会 1989 愛知県で死去 享年95歳 明治期以降の日本の洋画家は主にフランス・パリに目を 向けていたが、北川の他に清水登之(1887-1945)、国吉 康雄(1889-1953)、石垣栄太郎(1893-1958)野田英夫 (1908-1939)などは若くしてアメリカ合衆国に渡って 画家として飛躍した。 彼らは苦しい下積み時代を経験しており、一様に民衆に 関心を寄せた。 北川の作品の題材となったのは、民衆、労働者、瀬戸の 裏町、工場、母子像、花、バッタ、風景などである。 メキシコでは古代からバッタが神の使いであるとされ、 絵画の題材にもなっていたが、日本でバッタを絵画の題 材としたのは北川民次が初めてだとされる。 1939の「銃後の少女」は軍国主義を、1960の「白と黒」は 反対する民衆を、1961の「セブンティーン」は浅沼稲次 郎暗殺事件を起こした少年の暴力を、「女医」はサリドマ イド児の薬禍を、1973の「百鬼夜行」よど号ハイジャッ ク事件をテーマにしている]。北川民次は生涯に渡って 権威に抵抗した。 静岡県出身であり数多くの風景画を描いているが、茶 畑を題材に選ぶことはあっても、権威の象徴としてと らえていた富士山を題材に選ぶことはなかった。 また、京都の舞妓のように華美なものを描くことも嫌 った。 政治的な題材の作品を多く制作し、日本で北川民次の 作品はグロテスクで近寄りがたいとされていた時期も あった。 北川民次が描いた題材ははっきりとした輪郭線を持ち 、細部は省略されるか簡略化され、形態はデフォルメ されている。 量感や存在感を強めるためにのみモデリング(立体感 の創出)が施され、微妙な色調の変化は排除されてい る。 遠近法は使われているものの、画面は奥行きを持たず に横に広がり、平面的な装飾性を有している。技術面 では構図のセンスが抜群であり、テンペラの技法にも 優れていた。100号の大作を1週間あまりで仕上げる 制作力を持っていた。 その生涯に342点以上の版画も製作しており、戦前の木 口木版の諸作品は日本の近代版画史の中で高い評価を 得ている。 版画の代表作には「瀬戸十景」「メキシコの浴み」(1941) 、「タスコの裸婦」(1941頃)などがある。 戦後には木版画や石版画の画集を刊行するなどして大 衆から人気を得て、「Peintre-graveur」(画家にして 版画家)としての地位を確立させた。 メキシコで行った児童美術教育はメキシコ国内だけで なく欧米でも注目を集めており、北川民次は児童美術 教育における世界的な先駆者である。 「日本画壇のアウトサイダー」「不遇の画家」「美術 史から消された異質の画家」と評されることもある。 日本画壇では不遇な地位にあったが、その作品のファ ンは日本全国に存在する。アギラ・アステカ勲章を授 与されたメキシコでは、スペイン語で巨匠を意味する 「マエストロ」と呼ばれて敬愛されている。 骸骨を好んで描いたメキシコ人画家ホセ・グアダルーペ ・ポサダを日本に紹介したのは北川民次である。アメリ カ合衆国の画家・版画家ジョン・マリンも北川によって 日本で知られるようになった。 瀬戸信用金庫は1958から北川民次をテーマとするカレ ンダーを製作しており、その製作部数は2003時点で年間 9万部にも及ぶ。 瀬戸市周辺だけでなく、関東地方・九州地方・東北地方に もこのカレンダーを楽しみにする北川民次北川ファンが いるという。 1959に開館した瀬戸市民会館が取り壊され、後継施設と して2005に瀬戸蔵が建設された際には、瀬戸市民会館に 設置されていた壁画が瀬戸蔵に移設された。 瀬戸市安戸町にある北川のアトリエには北川の支援者の 一人が居住していたが、1992には空き家となった。その 後北川民次の作品の愛好家が4000万円の募金を集め、借 地だった敷地ごと買い取って1992年9月に瀬戸市に寄贈 した。 大正時代の建築物であるため傷みがひどく、瀬戸市も運 用方法を決めかねていたため、1994には有志によって 「北川民次のアトリエを守る会」が発足した。 「守る会」は木造平屋建のアトリエを春と秋の年2回、一 般公開している。 受賞・受章 1952 第5回中日文化賞 1953 愛知県教育功労者 1964 第6回現代日本美術展優秀賞 1986 メキシコ政府 アギラ・アステカ勲章 展覧会 1937 「メキシコ作品展」(日動画廊) 1957 「須田国太郎・北川民次 2人展」 (神奈川県立近代美術館) 1961 「藤田・北川展」(本間美術館) 1973 「画業60年北川民次回顧展」(東急百貨店日本橋店) 1974 「バッタの哲学展」(飯田画廊) 1989 「北川民次展」(名古屋市美術館・静岡県立美術館) 1991 「北川民次版画展」(豊田市美術館) 1996-1997「北川民次展」(愛知県美術館) 2007 メキシコと北川民次展」(浜松市美術館) 2009 「北川民次展」(瀬戸市美術館) 2015 「北川民次展」(瀬戸市美術館) 著書 「絵を描く子供たち」岩波書店〈岩波新書〉1952 「子供の絵と教育」創元社、1953 「北川民次画集」美術出版社、1956 「メキシコの誘惑」新潮社、1960 「北川民次画集」日動出版、1974(再版) |