国吉康雄(1889-1953)息子として誕生。弘西小学校、内山高等小学校を経て1904に 岡山県立工業学校の染料科に入学したが、1906に退学し、カナ ダ経由でアメリカに渡った。 国吉康雄自身は渡米の理由について「父の助言」と後に述べた が、英語の習得を目的とした一少年の冒険とも評され、また 当時は日本人のアメリカ移民が流行していた事も背景にある といわれる。しかし同年はアメリカが帰化法を改正して、日 本人移民1世のアメリカ国籍取得を事実上不可能にした年で もあった。 国吉康雄のアメリカ生活はシアトルから始まり、鉄道工夫、 農業労働者、ホテルの雑役夫により糊口を凌いだ。 次いでロサンゼルスに移動して肉体労働に従事する傍らに公 立学校に通い、その後スクール・オブ・アート・アンド・デザイ ンに入学して画学生となった。 1910に国吉康雄はニューヨークに移動し、ナショナル・アカデ ミーに入学するが3カ月で退学し、その後1914にインディペン デント・スクール・オブ・アーツに入学した。 この前年にはヨーロッパのモダニズム芸術を紹介してアメリ カの保守的な美術界に衝撃を与えたアーモリー・ショーが開 催されたが、国吉康雄自身は仕事のためこれを直には見てい ない。しかしアーモリー・ショーがもたらした熱気に国吉康雄 も人づてながら触れていた。 国吉康雄は更にヘンリー・スクールを経て、1916にアート・ス チューデンツ・リーグ・オブ・ニューヨークに入学し、ケネス・ ヘイズ・ミラーの指導を受けた。 アート・ステューデンツ・リーグの在学中に、国吉康雄はジュー ル・パスキンやロイド・グッドリッチなど後に国吉康雄を支え る多くの人物と出会った。最初の妻となる画家キャサリン・シ ュミットとの出会いもここである。 1917、国吉康雄は新独立美術協会展に作品を出展した後、当 時のアメリカの前衛画家が集っていたペンギン・クラブに誘 われて展示会に出品し、画家活動の第一歩を踏み出した。 同時期に国吉康雄は資産家のハミルトン・イースター・フィー ルドから生活の援助を受け、彼の影響もあり国吉康雄の画風 はアメリカ的モダニズムへと進んでいく。このころの作品は 印象派のオーギュスト・ルノワールの作風、ポール・セザンヌ の色調の影響を受けている。代表作に「自画像」(1918)、「テー ブル前の女」(1917)などがある。 1919には国吉康雄はキャサリンと結婚するが、アメリカ国籍 を持たない国吉康雄と結婚したため、当時のアメリカ法によ りキャサリンもアメリカ国籍を剥奪されてしまった。 1922、国吉康雄がダニエル画廊で開いた個展がアメリカメデ ィアに大きく注目され、彼の作品の素朴さや独自性、モダニ ズムの中にある繊細性などが評価された。その後ダニエル画 廊での個展は毎年続き、国吉康雄は独特な素朴派画家として 売り出していった。 当時の国吉康雄について、ヨーロッパとも日本とも違うアメ リカのモダニズムを生み出したという評価もあり、国吉康雄 はヨーロッパの模倣ではないアメリカ画家としてアメリカに 受け入れられていった。 ロイド・グッドリッチは当時の国吉康雄の画風を「東洋趣味 とモダニズムのユニークな混合」と評し、ミルトン・ブラウン は「20年代の国吉康雄の作品はマルク・シャガールなどの表現 主義に近い」と評した。 村木明は当時の国吉康雄の画風について、国吉康雄独自の作 風を示すもので、それなりの意図と工夫があり、国吉康雄の 日本時代の生活記憶と空想・ユーモアから生まれた幻想的表 現主義であると述べた。 当時の代表作に「野馬」(1920)「海辺」(1920)「海岸の家」 (1922)「釣りをする少年」(1922)「フルーツを盗む少年」(1923) 「暁を告げる雄鶏」(1923)などがある。 また同1922にはモダニズム画家が集っていたサロンズ・オブ アメリカの会長職を、死去したフィールドから引き継ぎ1936 まで務めた。 1925、国吉康雄はジュール・パスキンの誘いを受けてパリに渡 る。エコール・ド・パリの初期に当たるこの時、国吉康雄は特 にサーカスの少女を好んで描き、サーカスの少女は後々まで 希望の象徴として国吉康雄の絵に登場する事になる。 1928に国吉康雄は再びパリを訪れ、エロティックな性質の作 品を手掛けた。またこの時にモーリス・ユトリロ、シャイム・ス ーティン、パブロ・ピカソらと交流し、彼らの写実的な手法に 影響を受けた。 1929、国吉康雄はニューヨーク近代美術館により現代アメリ カ絵画を代表する1人として、「19人の現代アメリカ画家展」に 選出された。この時期の国吉康雄は絵画「横たわる裸婦」な どで流動的なリアリズムを表現した。 当時のアメリカ美術界では、アメリカ独自のものをどう表現 するかという課題を持っており、日常のリアリズムを表現す るアメリカン・シーンが流行した。国吉康雄はここでも活躍 した。 1931、国吉康雄は故郷で重病となった父を見舞うため日本に 一時帰国した。その際に日本の美術界による帰国歓迎会が催 され二科会の会員に推薦されたり、東京・大阪・岡山で個展 も開かれた。国吉康雄の帰国は日本で一時的な話題にはなっ たが、絵は2点しか売れないなど、国吉康雄の芸術が日本側に 理解されたわけではなかった。また日本滞在中に警官に対し て敬礼しなかったために、警官から激しく罵倒されるといっ たアクシデントもあり(国吉康雄はこの件を劇画に残した)、 以降の国吉康雄は日本社会と馴染む事を断念する。アメリカ に戻った後に妻キャサリンと離婚する。1935に女優ダンサー ・モデルのサラ・メゾと再婚した。 1933、国吉康雄は母校のアート・ステューデンツ・リーグの教 授に就任。またリベラル的な芸術家の集団であるアン・アメリ カン・グループの委員長となる。 1930年代には世界的なファシズムの波が覆う一方で、ファシ ズムに反対する運動も活発化していた。国吉康雄も自らを育 んだ民主主義を守るべく、1936にアメリカ美術家会議に参加 して全米執行委員・展覧会委員長に就任し、反ファシズム運 動に身を投じた。国吉康雄はアメリカ美術会議にて反戦・反 ファシズムや文化振興といったテーマの展覧会を開催した。 しかし後にソ連がドイツと接近した事、特にソ連のフィンラ ンド侵攻に対する評価をめぐってアメリカ美術家会議内では 対立が顕在化し、国吉康雄は1940にアメリカ美術家会議を脱 退した。当時の国吉康雄の画風は、写実性と時代性が複合した ものといわれ、女性をモチーフとした各絵画に表れている。 1941の日米開戦の際、国吉康雄はニューヨークに住んでいた ためにアメリカ西海岸の日系人強制収容の対象にはならなか ったが、敵性外国人として当局によって取り調べやカメラ双 眼鏡の没収、またニューヨーク市外に出る際には許可が必要 といった措置を受けた。法律上はアメリカ国籍を取得できな くとも、既に「アメリカ人画家」としてのアイデンティティを 持っていた国吉康雄は傷ついたプライドを回復し、また自身 がアメリカに敵対しない事を証明する必要に迫られた。一方 で国吉康雄は自らを育んだアメリカの民主主義を守る必要を 感じ、満州事変以降の日本の中国侵略に対しては日米開戦前 から疑問を抱いていた。 1941年12月12日、国吉康雄はまずニューヨーク在住日本人美 術家委員会の名で声明を出し、日米戦争に際してアメリカを 明確に支持すると表明した。 これには保忠蔵やトーマス永井、鈴木盛、ロイ門脇といった 在米日本人・日系美術家が加わった。この他にも国吉康雄は 同様の声明をルーズベルト大統領やニューヨーク州知事、更 に多くの知人宛てに送った。 やがて国吉康雄はアメリカの戦時情報局(OWI)から対日プロ パガンダの仕事を受ける。1942年にハワイからの対日ラジオ 放送に参加し、アメリカ民主主義の正当性を日本に向けて主 張した。 一方で当時の国吉康雄には在米日本人・日系人社会(特に西海 岸)との意識のずれがあったという指摘がある。国吉康雄は 在米日本人・日系人社会について、閉鎖的である、本国政府に 従順すぎるといった批判を行っているが、日米戦争に際して アメリカ政府側に無批判に立ち、他の在米日系人に対して優 位な感情を持つ傾向は、国吉康雄のみならず東海岸に居住し ていた日本人・日系人に共通して見られた事でもあった。 また国吉康雄の対米戦争協力の個々の行動についても批判が ある。OWIから「日本側の残忍な拷問や虐殺」のシーンをポスタ ーに書くよう要請された際、国吉康雄はこれに応じて日本兵 が乳児や女性を殺害しているなどのシーンのポスターを描い たが、こうしたものは批判精神を欠いた、ただ残虐なだけの ものであった(このような残虐なポスターは結局採用されな かった)。また、インタビューの中で国吉康雄は(日本兵の士気 を削ぐためとはいえ)、日本の民間に対する爆撃を肯定しか ねない発言を残している。これは日本の支配者側として戦争 を遂行している日本の軍国主義者と、被支配者側である日本 の一般国民を区別している国吉康雄の基本姿勢とも矛盾して いた。 一方で、国吉康雄はOWIでプロパガンダポスターを描いていた 際、ポスター内の人物から人種的な特徴を排除し、人種に関係 なく戦争で傷つく人間を描こうとしていたという指摘もある。 また国吉康雄はOWIに参加した当初、徳川時代の将軍・鎧武者 をモチーフにしたポスターを描いたが、これはOWIに「芸術的 だが大衆へのインパクトに欠ける」という理由で却下されて いた。「残虐なポスター」は、OWI側から「最近の日本の残虐 行為」を描くように促された結果でもあったという。 国吉康雄は当時のアメリカではびこっていた、「日系人は日 本の天皇のみに忠誠を誓い、アメリカには忠誠心を持たない」 という偏見と闘わなければならなかった。国吉康雄が従事し た対日放送はアメリカ国内でも評価され、アメリカにおける 反日系主義を和らげる効果もあったが、一方で日本人を悪魔 同然に描く風潮は当時のアメリカでは強かった。そしてOWI が商業主義的な手法も使ってプロパガンダを進めた結果、純 美術主義で先進的な考えを持ち、国吉康雄と考えが近かった ベン・シャーン等どがOWIから離脱した。国吉康雄自身はOWI に残留したが、保守派からの批判を受けることになる。そし て国吉康雄が描いたOWI不採用ポスターは、「日本に詳しい日 本人」(国吉康雄自身は何十年も日本から離れており、実際に は詳しくないにも拘らず)が描いたものとして、実際のシーン を描いたものではないプロパガンダポスターであることを読 者側に隠されたまま、対日批判報道に援用された。 この時期の国吉康雄は不安と孤独感に苛まれ、戦争の悲惨さ と虚無感が彼の作品に影響を与える。国吉康雄の代表作の一 つである「誰かが私のポスターを破った」(1943)は、アメリカ の好戦的なナショナリズムや、国吉康雄らのリベラル派画家 への反感が背景にある。一方で国吉康雄は静物画での比喩的 心理表現や造形的な楽しみを見出し、「110号室」(1944)はカー ネギー・インスティチュート全米絵画展で1等賞となった。終 戦前後になると国吉は貧民層を描いた「一日の終わり」(1945) など、現実に回帰した作品を手掛けた。また「飛び上がろうと する頭のない馬」(1945)や、「祭りは終わった」(1947)では、排 外的になるアメリカの世相への失望を表したとも言われる。 戦後の国吉康雄はアメリカの美術家に対する公私の援助拡大 を志向し、美術家組合(artist equity association)を1947に 設立して自ら会長となった。国吉康雄のもとで美術家組合は 急成長しニューヨークが世界の美術界の中心になっていく事 に貢献する。一方で戦後アメリカの激しい反共主義を背景に 国吉康雄や組合も政治的な攻撃を受けたが、国吉康雄はこれ を冷静にかわした。1948にホイットニー美術館で国吉康雄の 回顧展が開かれた事は、アメリカ美術界で国吉康雄が確固た る地位を得ていた証であった。 国吉康雄は1950頃から体調を悪化させていく。1952にはア メリカは移民帰化法を裁可し、国吉康雄らアジア人移民一世 にもアメリカ国籍取得の道が開けたが、国吉康雄は国籍取得 手続きの終了を待つことなく、1953に胃癌で死去した。国吉 康雄は晩年、もう一度日本に帰って回顧展を開き、自身の作 品を日本に問おうと希望していたが、叶わなかった。 国吉康雄年譜 1889 9月1日岡山市中出石町に生まれる(現出石町1丁目) 1906 岡山県立工業学校(染繊科)を退学 カナダヴァンクーヴァー経由でアメリカ合衆国に入国 シアトルで就労 1907 ロサンゼルスに移る 働きながらロサンゼルス美術学校夜間部に通う 1910 飛行家を志すが断念、ニューヨークに移る 雑役労働に追われながらも美術学校を転々とし、断続 的に勉強を続ける 1914 インディペンデント・スクール・オブ・アーツに入学 ヨーロッパ美術の新しい傾向に触れる 1916 アート・スチューデンツ・リーグに入学 恩師ケネス・ヘイズ・ミラー、終生の友となる良き級友た ちに巡り合う 1917 独立美術家協会第一回展に出品 前衛的な画家の集団ペンギンクラブに加わる リーグより授業料免除の奨学金を得る 1918 ハミルトン・イースター・フィールドの招きでメイン州 オグンクイットで制作 ブルックリンのアパートを与えられ、フィールドの援 助を受けることになる ジュール・パスキンと出会う 1919 リーグの学友キャサリン・シュミットと結婚 生計のため商業写真家(美術作品の撮影)として働き始 める 1920 リーグを退学 商業写真家として働きながら制作を続ける 1922 ニューヨークのダニエル画廊と契約 ウッドストックの出版社が国吉康雄の画集を出版 フィールド死去 1925 キャサリンと二人で初めてヨーロッパに旅行 滞在期間10ヶ月の大半をパリで過ごし、新たな方向を 模索 パスキンの助言でモデルを使った制作を試みる 1928 制作上の行き詰まり打開のため、永住を決意し再びパ リに渡る 集中してリトグラフを制作 ニューヨークに戻る パリで制作したリトグラフ24点をダニエル画廊で展示 1929 ウッドストックに家を建て、以後、そこで夏を過ごす ニューヨーク近代美術館の「現存アメリカ19人展」に 選ばれる 1931 病床の父を見舞うため、25年ぶりに帰国 岡山、東京、大阪で個展を開くがあまり注目されず 軍国主義の台頭に驚く 1932 横浜出港、帰米の途につく。船中で父の訃報を受ける キャサリンと離婚 美術家団体アン・アメリカングループの設立に関わる ラジオ・シティ・ミュージック・ホール中二階 婦人化粧室の壁画を完成 1933 ダニエル画廊閉鎖に伴い、新たに契約を結んだ ダウンタウン画廊で個展開催 母校リーグで教職に就く 画廊との契約もリーグでの仕事も生涯続く 母死亡、ただ一人の肉親を失い日本との絆は切れる 1934 数多くの展覧会に出品 「第129回年次展」でテンプル・ゴールド・メダル受賞 (ペンシルヴァニア・アカデミー・オブ・ザ・ファイン アーツ) ロサンゼルス・カウンティ美術館展で二等賞受賞 1935 サラ・マゾと再婚 グッゲンハイム奨学金を得る サラを伴いアメリカ南西部とメキシコをスケッチ旅行 1936 ニュー・スクール・フォア・ソーシャル・リサーチで教え 始める 左翼系の美術家団体アメリカ美術家会議に参加するが 、まもなく退会 1937 ウッドストックのアトリエに暗室を設け写真に熱中す る 1939 アン・アメリカン・グループの会長に選出(-44) ボルチモア美術館の「6人の現存アメリカ作家展」に選 ばれるピッツバーグのカーネギー「第37回国際絵画 展」で二等賞受賞 1940 自伝的随筆「東から西へ」を「マガジン・オブ・アーツ」誌 に寄稿 アメリカ北東部ニューイングランド地方をスケッチ旅 行 1941 アメリカ中西部をスケッチ旅行 日米開戦により、国吉康雄の法的身分は外国人居住者 から敵性外国人となる 1942 アメリカ合衆国戦時情報局の要請により、日本人向け 短波放送の演説原稿を書く ダウンタウン画廊で回顧展を開き、入場料を中国救済 基金へ寄付する 1944 ペンシルヴァニアアカデミー「第139回年次展」でヘン リー・シャイト記念賞受賞 カーネギー「アメリカ合衆国絵画展」で一等賞受賞 1945 「第56回アメリカ絵画年次展」でノーマン・ウェイト・ ハリス青銅牌受賞 (アート・インスティテュート・オブ・シカゴ) 1947 美術家組合の初代会長に選出され(-51) 1948 「ルック」誌が現代アメリカの10人の画家に選出 ホイットニー美術館が現存画家としては初めての回顧 展を開催 シンシナティ美術館「アンアメリカンショー」に6人の 米人画家の一人として出展 1952 カルダー、ホッパーと共にヴェネチア・ビエンナーレの アメリカ代表作家に選出 毎日新聞社主催「第一回日本国際美術展」のアメリカ部 門の作品を選考 戦後はじめてアメリカ現代美術を日本に紹介 1953 5月14日胃癌のためニューヨークで逝去 享年63歳 代表作品 「自画像」 「牛と小さなジョー」 「フルーツを盗む少年」 「カーテンを引く子供」 (1922) 「物思う女性」(1935) 「横たわる女」 |