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クリスチャンリースラッセンChristian Riese Lassen1956年3月11日カリフォルニア州メントシーノに生まれる。 ラッセンは紙と鉛筆を手にした時から、生まれ持っての才能 を発揮した。 画家であり、ラッセンに多大な影響を与えたラッセンの母、 キャロルは、「彼の絵はまるで百科事典の挿絵のようだった」 とその幼少時を振り返る。 クリスチャンは、部屋を抜け出しては、何時間も絵を描くこと に費やしたという。 「彼はとても静かな少年だった」キャロルは回想する。 「私たち家族はこの子の将来は一体どうなるのかと案じたもの でした」 1967年ラッセン11歳の時に家族と共にハワイ諸島マウイ島へ 移り住む。 マウイ到着2日目にはすでに初めての波に乗っていた。 サーフィンを通して、母なる海に抱かれたラッセンは、その美 しさ偉大さに魅了され、その実体験と彼の目に映る世界を描き 始める。 彼の絵はすぐに人の目を引いた。 カメカメハIII小学校へ通う傍ら、いくつかのイルカの絵を地元 のギフトショップへTシャツのデザインとして提供した。 また、校内でも新聞やポスターとしての作品の提供を定期的に 依頼された。 クリスチャンの想像力を育んだラハイナの景色は特に人気だっ た。 美術の専門教育を受ける事は一度もなく、全てを独りで学んだ。 グレイジングテクニックー平らな面に何度も色を重ね、層を作 り、絵に奥行きを作る事で三次元の世界を描き出す方法ーが、 彼の見る世界を限りなくリアルに表現すると気付いたラッセン はさらに上のレベルを常に求め、無意識のうちにトップアーテ ィストの道を歩き始めていた。 絵を描くこと以外で彼を虜にしたのはサーフィンだった。 ラッセンは17歳で、サーフィンマガジンの表紙を飾っている。 波に乗り、彼を取り囲む美しい自然をキャンバスに描き、その 作品を売ることで、ラッセンの生活は満たされていた。 高校卒業後、サーフィンの腕がプロの域に達したラッセン、更ら に大きな波を求め、1974年にオアフ島ノースショアへ移り住む。 そこでサーフィンワールドカップチャンピオンのマークリチャ ードと共に生活。 サーファーとしての頂点を極めたマークとの生活は、ラッセン のサーファーと、そして選ばれたアーティストとしての可能性 と好奇心をさらに伸ばしていった。 その後、20代を通してサーフィンと絵画に没頭。彼のアートに 関する集中力とエキセントリックな情熱は常人のものではなか った。 なぜ彼はそこまでアートに打ち込むことが出来たのか? それは、彼の最高の理解者であった母キャロルの言葉、”Self Reliance(自己依存、独立独行)”が終始彼を支えていたからだ。 クリスチャンは自分の美を表現し、追及し、そして創造するこ とも休むことはなかった。 ラッセンは自分を信じていたのだ。 そして20代後半、絶え間のない努力と、持って生まれた才能が熟 した時、アーティスト クリスチャン・リース・ラッセンは地元ハ ワイだけではなく、世界中から注目されるようになる。 1985年ラッセン自らプロデュースするラッセン・アート・パブ リケーションズを設立。 ”OUR WORLD”を代表とする、初版の一連の風景画は、ラッセン の予想を遥かに上回る大ヒットとなり、第2、第3のリミテッドエ ディションー限定版画ーがリリースされる。 特に日本で、クリスチャンの絵画は、理想的な世界、最高に調 和のとれた自然環境を描いた作品として広く受け入れられた。 その結果ラッセンは、その後3年で日本でのベストセラー画家 となる。 アーティストとして成功する一方で、ラッセンは、自分が主題 として描く自然環境の保護に関心を持ち始める。 「海は、全てを、限りない愛情を、私に与えてくれた」母なる海 からの愛情に答えるため、1990年、シービジョン財団を設立。 この財団を通して、クリスチャンが製作する作品の収益金の一 部を、地球環境保護に役立てている。 日本海重油流出事件の際、援助金を送ったことは、日本でも報道 された。 「これから何等かの形で海に報いる事が私の義務なのだ」 1992年海中、陸上、そして宇宙のバランスを描いた「サンクチュ アリー」が、国連の海洋保護キャンペーンの記念切手として発行 されたことは、ラッセンが海洋保護論者で芸術家である、と世界 に認められた結果である。 また、それまで数々の画家が、TWO WORLDー海中と陸上ーを描い てきたが、その調和の大切さ、意味深さを世に知らしめたのは クリスチャンが最初といえる。 1996ホノルル市は、3月2日を「ラッセンの日」と制定。 1998には、国連親善大使に任命された。 1999クリスチャンが主演した「私は地球ーI am the earthー」 が日本全国の小学校で上映された。クリスチャンは映画の中か ら、日本の子供たちに地球の大切さを説いた。 「私は、私の絵が、環境破壊の現状を広く世に知らせ、お互い の文化に対する偏見を解く手助けをすると信じている」クリス チャンはメッセージを送り続ける。 私たち人間が存在する限り、それは受け継がれていくだろう。 ラッセンはハワイで見た海のリズムを奏でる大波と四季折々 の素晴らしい景色を表現する80年代の初め、オランダの古い 技法である"グレ−ジング"(鮮明な漆の層で分けられ何色もの 層を塗ることを要求する時間のかかる作業)を完成させること によって様々な海洋の変化を適切に描写できる技術を向上させ ていました。 1つ1つの層を乾かす時間が必要になるのでとっても時間がか かる作業です。 ラッセンはこの技法を海の景色、夕日、日の出、夜の海等の 作品に使用しています。 この様式によって、絵の中の異なった面と距離の間に光を反 射させることが可能になります。 サーフフィンに対しての情熱と共に、海を主題にした作品に 、彼の才能の全てを注ぎ込んでいる。 彼はこれを波の動き、礁の構造、海洋生物の動きを通し絵の 中で伝えています。 クリスチャン リース ラッセン年譜 1956 カリフォルニア州メンドシノの浜辺の町で生まれる 1966 家族とハワイに移住し、オアフ、マウイ、ハワイ島を 転々とした後、一家はマウイに定住 1989 ホノルルマラソンの公式アーティストに選出 1990 環境保護団体<シービジョン財団>設立 1992 <サンクチュアリ>を制作 国連記念切手の図案に採用される 1996 ユニバーサル映画のポスター[フリッパー]制作 ホノルル市は、3月2日を「ラッセンの日」と制定 1998 NGO組織フレンド・オブ・ユナイテッドネーションの 親善大使に任命 地球環境映画(I am the earth=私は地球)に主演 「I am the earth=私は地球」 クリスチャン・R・ラッセンが主演した環境映画 物語は、地球という生命体のモノロ−グから始まります。 「私は地球。私の上で生まれ育った無数の生き物たちは、それ ぞれに生き、それぞれに死んでいく……そんな彼等を、私はど んな時も静かに見守ってきた。」 そして、その地球の海で楽しそうに泳ぐクリスと親友のイルカ のディ−。 その交流はごう慢な人間たちによって壊されてしまい、イルカ のディ−の死が……。 悲しみにうちひしがれ、海を彷徨うクリスは、姿を人間に変え たディ−の娘のド−リ−、妻のマリ−に助けられます。 仲良くなったクリスとド−リ−は、時間を超えた旅のなかで、 海の過去と未来を見つめ、大きな危機感を抱き始めます。 そうした二人に地球という生命体からのメッセ−ジが聞こえて きます。 「私は地球。私は願っている、未来を生きる子ども達にも美し い思い出が作れることを……。」 この作品の監督は、広告写真の世界で数々の賞を獲得すると共 に、TVCFや版画の世界でも美しい色彩感を表現しているト ップア−ティストの西宮正明で、「ハワイのアトリエであった ラッセンは、大きなテラスの外の青い海をそのまま人格にした 男だと感じた。 この映画は、絵描きと写真家の作った、地球の映像詩です」と 語っています。 この作品は、1998年・国際海洋年に合わせて、その趣旨を広く 伝えるために全国各地で上映活動が進められていきます。 美しい海を、自然と生命を大切にしようという崇高なメッセ− ジが、ラッセンを始めこの映画に関わった全ての人間から、日本 全国の街に、学校に、届けられています。 ■制作:CUC・日本コロムビア ■エグゼクティブプロデューサー:高橋勝 ■プロデューサー:鍋島壽夫/浅川武彦/高山雅治 ■アソシエイトプロデューサー:ディーン・バーコ/篠木廣幸 ■ラインプロデューサー:ブライアン・バジェス ■監督:西宮正明 ■脚本:後藤槙子 ■撮影:長谷川元吉 ■編集:後藤彦治 ■協力:ビレッジロードショープロダクション PFTC/ 松竹大船撮影所 クリーチャーデザイン&マニファクチャー ■カラー作品:ヴィスタサイズ/ドルビーシステム ■字幕:安田由躬子 ■上映時間:1時間20分 |