芝田米三(1926-2006)し油絵を学ぶが、戦時下のため入営する。 戦後、独立美術京都研究所で須田国太郎に師事。 1950独立展独立賞、サロン・ド・プランタン賞受賞。 1963安井賞受賞。1965、1971、1973に渡欧。1974安井 賞選考委員、日伯美術連盟評議員。1975ブラジル・サン パウロ州議会より騎士賞授与、1978京都府芸術会館理 事、1979訪ソ、1989年京都府文化賞功労賞、1993独立 美術協会功労賞、1994京都市文化功労者、「楽聖讃歌」で 日本芸術院賞を受賞、日本芸術院会員。 1999年勲三等瑞宝章受章。没後、従四位に叙される。 動物、人物が描かれた幻想的な作風で知られる。 朝日新聞編集委員であった美術評論家の池田弘は芝田 米三について、その生活態度や環境においてもすべて に「愛」が介在する、常に本質を見つめ大切なことを 見逃さない豊かで健康的な生き方から、愛に満ちた安 らぎの世界が絵に表現されると評している。 当時の日本洋画壇が抽象か具象かで揺さぶられていた とき、画家が思い描く思想をいかに造形化するかとい うことが絵画芸術の本質であるならば、具象ではある が、かなり構成的で感覚の新しいこの作品において、 芝田米三は「絵はやはり具象でないと思想は表現でき ないと思う。思想のない絵はあり得ない。 その思想とはいつも自然をしっかり見つめているうち に生まれるその人の世界観だ」と言い、これ以降の指 標というべき画家の進むべき方針を確立した。 また画家はこの受賞の折、好んで動物を主題にするの は「生命感を表現したい」からと語っており、この作品 で「馬の芝田」の異名をとった芝田米三は、それから数 年間にわたって同じ傾向の馬をメイン・モチーフに描 き続けるが、その後の作風に幻想的傾向が強まってい くものの、馬は画面から消えた後にも絶えずまた復活 しており、この動物は芝田米三の作品発想の中に生き 続けてゆくことになる。 美術評論家の村木明はこの「樹下群馬」を、野生美に満 ち溢れ作品発想のイメージが見事な造形絵画として実 現しており、画面をほぼ横に3分割した上2段の中央 にダイナミックな大木を描き、その下の横2段に馬の群 像を配した大胆な構成で、一見装飾的でありながら画 面全体が躍動しており、その彩色処理がそれを引き立 て、いかにも新しい意欲を感じさせる洋画家、芝田米三 の地位を築いた代表的な秀作であると評している。 美術評論家の村木明は前述した躍動感にあふれる「樹 下群馬」と、1976に発表された格調ある優雅な美を表 現した「春夏秋冬」の一対によって、1980までの芝田 米三芸術の表現世界を代表できると次のように述べて いる。 この作品「春夏秋冬」は4人の人物によってそれぞれに 表現される四季図で、4つの屏風仕立のそれぞれが独立 した主題の季節感を表しながら人物群像の装飾的構図 を追求しており、「樹下群馬」とはモチーフもマチエー ルの処理も対照的でありながら「樹下群馬」が横に3等 分した基本図形であるのに対して、この作品は画面を 縦に4等分したいわゆる屏風仕立の構成をとっており 、何よりも2つの作品の画面の引き締めに統一感を与え る1本の大木が中央から左右に広がっていて、これこ そが画家の造形思想によりたどり着いた絵画表現たる 造形芸術の一つの結果であり「樹下群馬」と「春夏秋冬」 の2作品が文字通りこの地点までの芝田米三絵画を代 表していると言えると村木明は評している。 読売新聞社が主催した1984の展覧会「生命の讃歌、 芝田米三展−昭和世代を代表する作家シリーズ・2」に て、この作品「春夏秋冬」は東京、大阪、名古屋と一般展 覧され、その展覧会画集の表紙に採用されており、150 号の大きさのあるこの作品を元にサイズダウンした本 作品のリトグラフも画家がサインを入れて限定数280 部として発行されている。 芝田絵画に登場するシンボライズされた女性像のモデ ルは藤子夫人といわれいてる。 芝田米三は一人で出かけていた海外取材旅行の折のあ まりの美しい情景を、藤子夫人に向けて「青い海と素 晴らしいソレントを見せたかった」という言葉ととも に夫妻の子供たちが夫人の手を離れた1971頃より藤子 夫人との二人三脚の海外取材の旅が始まった。 二人は1979にソビエトの古都レニングラードを訪れ、 かつてのロマノフ王朝の「冬の宮殿」であったエミタ ージュ美術館の300万点の所蔵品、またロシア美術館の 32万点の芸術品に圧倒されつつ、旅を進めて、多様な 造形をみせる教会が立ち並ぶ美しい古都ススダリを目 指した。 その道中の広大な大草原はおのずと二人に大きな感動 を与え、藤子夫人は米三と過ごしたこの時間に「心から の幸せを感じた」と言い、このような大自然の営みを 見て育った人々は心豊かで、この地から偉大な文学者 や音楽家が生まれてきたのが良くわかると藤子夫人は 感想を述べている。 芝田米三はこのときの感動を「めざめる大地」という 作品に描いたと、藤子夫人は自身の著書「追憶の記・ 画家芝田米三と歩んだ人間讃歌の50年」において回想 している。 芝田米三が師事した須田国太郎は生涯にわたり建築物 に強い関心を持ち続け、その作品には多くの建築物や 建築家が描かれているが、そのような須田の精神を受 け継ぐ芝田米三は画家として最も充実した円熟期を迎 えて、自身の子供の頃からの関心事項であった音楽を 絵画で表現するという芸術に到達した。 ブラームス、リスト、ドヴォルザークの3人の偉大な作 曲家を描く、まさに絵画による音楽の形象化というべ きこの作品は日本芸術院賞に輝き、そして芝田米三は 日本芸術院会員に推挙されたのである。 女性像の作品について芝田米三はその作品集の中に次 のような文章を残している。 「自然に育まれ、美しく開花し、自然の試練を受けて 豊かな結実の時が来る。それは尽きぬ自然の姿であり 、また、女性の成長期の姿にも似て、自然の仕組みの 神秘さに人生の歌を感ずる。美しく咲く花は、人の心 を魅了して楽しくし、実りは、試練を経て豊かさを得 た喜びの讃歌である。花の時期のみに終わらず、色々 な試練を受けながら成長し、実りある人生を歩んでい きたく思う。」そして芝田米三はその時の思いを書き 綴り、その何かを語りかけたいと結んでいる。 また、芝田米三はその著書「油絵の描き方8・人物画」の 中で、若い女性像について「私の作品には多くの若い 女性像が登場するが、これは絵画の最も古典的テーマ の一つであり、人間も自然の一員であることを理解す れば計り知れない人間のドラマ性にとりつかれ、その 魅力に引かれて描き続けることになった。」と述べてい る。 芝田米三は中央公論社の「婦人公論」の表紙画を1984 年1月から1987年12月までの4年間担当した。後にそ の作品40点を一同に集めた展覧会に寄せて、芝田米 三は「四季を通して春夏秋冬の移り変わりを詩情あふ れる情景と共に表現するように努めたが、その昭和が 過ぎて平成となり、私は昭和のいぶきを少しでも表せ ただろうか。」と語り、伝統ある表紙画を担当した喜 びを振り返っている。 芝田米三年譜 1926 京都に生まれる 1939 京都商業学校入学 独立美術協会の今井憲一に油絵の指導を受ける 1945 軍隊生活で中断していた絵の勉強を再開 独立美術京都研究所に入所、 須田国太郎に師事 1946 独立展出品(以降ほぼ毎年出品) 1947 独立展入選 1950 独立展独立賞受賞 サロン・ド・プランタン賞受賞 1958 独立展会員に推挙 日本国際美術展招待出品 1961 個展開催(銀座・サヱグサ画廊)(以降多数開催) 1963 安井賞展安井賞受賞 東京国立近代美術館が作品買上げ 1965 ヨーロッパ取材旅行 1966 独立展G賞受賞 1968 彼末宏、島田章三と共に三人展(サヱグサ画廊) 京都現代美術秀作展選出 1971 渡欧(同73年) 1974 安井賞選考委員に就任 日伯美術連盟評議員に就任 1975 サンパウロ州議会より騎士賞授与 1978 京都府芸術会館理事に就任 1979 ソビエト文化省に招待される 1989 京都府文化功労賞受賞 1993 独立美術協会功労賞受賞 1994 京都市文化功労賞受賞 日本芸術院賞受賞 日本芸術院会員に任命される 1999 勲三等瑞宝章受章 2002 金沢美術工芸大学教授退任 2003 独立美術協会70回記念展出品(大阪高島屋) 京都市美術館開館70年記念展出品 2006 21世紀展出品 5月15日逝去 享年79歳 |